ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」(12月4日放送)に内閣官房参与で外交評論家の宮家邦彦が出演。12月2日に亡くなったジスカールデスタン元フランス大統領について解説した。
「サミット」の枠組みをつくる
1974年から1981年にフランスの大統領を務め、サミットの生みの親としても知られるバレリー・ジスカールデスタン氏が12月2日、新型コロナウイルスに感染し、フランス中部の自宅で亡くなった。94歳だった。ジスカールデスタンさんは大統領在任中、オイルショック後の世界経済への対応を話し合うため、主要国首脳会議「サミット」を提唱。西ドイツ(当時)のシュミット首相とともに、1975年、日本やアメリカなど6ヵ国での開催にこぎつけ、いまにつながるサミットの枠組みをつくった。
飯田)ということで、第1回サミットの議長国であったと。
宮家)また時代が1つ終わってしまったという感じですね。私が外務省に入ったのは、78年ですが、79年に第1回目の東京サミットがありました。そのとき、私は入ったばかりだったのですが、サミット準備事務局というところに配属されてしまったのです。輸送を担当しました。そして、サミットの首脳が到着する特別機をすべて羽田空港でずっと見ていたのです。ジスカールデスタンさんも来ましたよ。あのコンコルドでね。
飯田)コンコルドで来たのですか。
宮家)大きな音でした。これがコンコルドかと。そしてそこから降りて来るのがジスカールデスタンかと、今でも鮮明に覚えています。彼が大統領をやっていた時代は、フランスにとっても最高の時代でした。戦後、まだフランスに勢いがあった最後の時代ではないでしょうか。ですから、彼がサミットを提唱したら、みんなが寄って来た。最初はランブイエでやるわけですが、ドイツとフランスが組んで、EUを強くして行って、本当にフランスにとっては古きよき時代だったと思います。ちなみになぜ「ジスカールデスタン」と言うかと調べてみたのですが、知っていますか?
飯田)いえ、知らないです。
宮家)お父さんの姓は元々は「ジスカール」さんだったのです。ところがお母さんはエスタン家という貴族の末裔なのです。そして、当時の議会か何かが、フランスは共和制だからもちろんもう貴族などはいないのですが、元貴族を大事にすると言うので、「ジスカールはエスタンと結婚したのだろう。それなら、ジスカール・デ・エスタンにしたらどうか」ということで、「ジスカールデスタン」になったと聞きました。ですから彼は、エナという優秀な大学出身のの財務官吏なのですが、同時にそういう血も引いているのです。本当にいい意味での、フランスのよき時代の最後のリーダーという感じですね。
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