御嶽海が光を当てた「227年前のスーパー新大関」の存在

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話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、1月23日の大相撲初場所千秋楽で3度目の優勝を飾り、大関昇進を確実にした関脇・御嶽海関と、伝説の力士・雷電為右衛門にまつわるエピソードを紹介する。

御嶽海が光を当てた「227年前のスーパー新大関」の存在

大相撲初場所・千秋楽 13場所ぶり3度目の優勝を決め、賜杯を手に笑顔の御嶽海=2022年1月23日 両国国技館 写真提供:産経新聞社

『素直にうれしい。重たいと思った。毎回どっしりくるものがあるという感じがする』

~『スポニチAnnex』2022年1月24日配信記事 より(御嶽海 初場所千秋楽・優勝力士インタビューでのコメント)

1月23日の大相撲初場所・千秋楽。3場所連続優勝に望みを残す横綱・照ノ富士を結びの一番で破り、3度目の優勝を飾ったのは関脇・御嶽海でした。「毎回どっしりくる」と、喜びを語った御嶽海。特に今回は、長年の目標であった大関昇進も確実にしただけに、より「重み」を感じる優勝になりました。

そもそも、過去に関脇で2度も優勝している力士が、まだ大関になっていないことは相撲界の七不思議の1つでした。最初の幕内優勝は2018年の名古屋場所。このとき御嶽海は関脇で13勝2敗の成績を挙げながら、続く秋場所は9勝6敗、九州場所は7勝8敗と負け越し、大関昇進を逃します。

2度目の優勝は2019年の秋場所。このときも関脇で12勝3敗でしたが、続く九州場所で6勝9敗と負け越し、またもや昇進はお預けとなりました。強い相撲を見せたかと思えば、一転、気の抜けたような取り口で敗れるなど、ムラッ気とメンタルの弱さを指摘されていた御嶽海。早くから「大関候補」と呼ばれながら、ライバルの貴景勝、朝乃山、正代らに先を越されてしまいます。

2020年7月場所(名古屋場所が東京開催に変更)で関脇に復帰してからは、三役(関脇・小結)の座を維持。昨年(2021年)の秋場所で9勝6敗、九州場所で11勝4敗の星を挙げ、初場所で13勝すれば、大関昇進の目安である「三役で3場所通算33勝以上」に届くことになりました。なのに「大関獲りの場所」として注目されていなかったのは、ここぞという勝負所で勝ちきれない過去があったからです。

今場所は、本来の押し相撲を徹底し、とにかく前に出ることを心掛けた御嶽海。初日から快調に9連勝のあと、10日目に同期の北勝富士に連勝を止められました。いままでなら気落ちして崩れかねないところでしたが、今場所の御嶽海はひと味違いました。初黒星を喫したときのことについて、御嶽海は優勝翌日(24日)の会見でこう答えています。

『完膚なきまでにやられたのでスッキリした。また明日から自分の相撲に徹してやると思いました。絶対に明日白星を取ってやるぞという気持ちが強かったですね』

~『日刊スポーツ』2022年1月24日配信記事 より

敗戦を発奮材料に変えた御嶽海は崩れることなく、12勝2敗の単独トップで千秋楽を迎えます。結びの横綱・照ノ富士戦は、敗れると阿炎も含めた3力士による「ともえ戦」での優勝決定戦になるところでした。しかし、大一番でも攻めの姿勢を忘れなかった御嶽海。立ち合いから横綱に力強く当たり絶好の体勢をつくると、そのまま寄り切り快勝。みごと本割で優勝を決めてみせたのです。

これで御嶽海は「3場所通算33勝」に届き、優勝のおまけも付いて、ついに大願成就となりました。26日の臨時理事会と番付編成会議を経て、大関昇進が正式に決まる見通しです。

ところで、御嶽海の昇進確定は、相撲界の歴史に再び光を当てることになりました。名門・出羽海部屋から新大関が誕生するのは、1975年、九州場所後に大関昇進が決まった三重ノ海(のちに横綱)以来のこと。やはり名門復活には横綱・大関が必要。御嶽海の大関昇進は、その足掛かりになりそうです。

そしてもう1つ、SNSでも「どれだけ前の話だよ」と話題になったのが、「長野県(信州)出身の新大関が誕生するのは227年ぶり」という記録です。227年前というと1795年。フランス革命(1789年)の6年後で、日本は江戸時代でした。老中・松平定信が「寛政の改革」(1787年~1793年)を実行した直後で、大相撲の歴史の長さを改めて実感する話です。

その227年前に誕生した「長野出身の新大関」というのが「雷電為右衛門(らいでん・ためえもん)」です。相撲史を語る上では欠かせない伝説の力士であり、その活躍ぶりは講談「寛政力士伝」のなかでも語り継がれているほど。6代目・神田伯山師匠もよく高座にかけています。

日本相撲協会の資料によると、雷電は1767年(明和4年)1月、現在の長野県東御(とうみ)市で生まれ、1790年(寛政2年)11月場所で「関脇付け出し」としてデビュー。当時の番付編成は厳格でなかったとはいえ、いまではあり得ない上位からのスタートです。雷電は身長6尺5寸(197cm)、体重45貫(168kg)と伝えられ、平均身長が低かった江戸時代では群を抜く大男でしたので、そこを見込まれたのでしょう。

当然パワーもケタ外れで、デビューの場所は「8勝2預かり」。当時ビデオはありませんから、どちらが勝ったかわからない微妙な勝負は相撲会所の「預かり」になりました。いずれにせよ、雷電は負けなかったわけです。この場所で雷電は「優勝相当」(この辺も江戸時代らしい緩さですが)となり、人気が沸騰。

雷電の怪力ぶりを物語る有名なエピソードが「張り手」「かんぬき」「鉄砲(=突っ張り)」の3つを禁じられた、という伝説です。巨体の雷電にこれをやられると相手力士が大ケガをしかねない、という配慮からですが、それでも雷電は勝ち続けました。

デビューから5年後の1795年(寛政7年)、雷電は大関に昇進。27場所にわたって大関を務め、1811年(文化8年)に44歳で引退するまで、預かりや無勝負を除いた通算成績は、254勝10敗2分。勝率は何と9割6分2厘! 20年あまり、ほぼ負けなかったのです。雷電が「史上最強力士」「無双力士」と呼ばれるゆえんです。

しかし、これだけ強かったにもかかわらず、歴代横綱のなかに雷電の名前はありません。当時は大関が最高位。「横綱」という呼称は、綱を締めて土俵入りの儀式を行うことを許された大関に対する「名誉称号」に過ぎませんでした。雷電が横綱免許を受けなかった理由については諸説ありますが、別にそんな呼称などなくても「自分が最強の力士である」という自負があったのでしょう。

そんな伝説の力士以来、久々の新大関となる御嶽海。会見で、雷電が現役中わずか10敗しかしていない、という話を向けられると、こう返しました。

『大関になって1年間で10回だけ負ける力士もいるかなと思います』

~『スポーツ報知』2022年1月24日配信記事 より

つまり、15番×6場所=年間90番を、80勝10敗で行くと宣言したのです。そうなれば年間最多勝はもちろん、横綱の地位もおのずと付いて来るはず。雷電が張らなかった綱を御嶽海が締める日は、果たして今年(2022年)中にやって来るのか? 今年は30歳の大台を迎える年。照ノ富士の対抗馬となる存在をファンは渇望しています。

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