ユーミンも泣いた 羽生の4回転半挑戦がもたらしたもの

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話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、2月10日に行われた北京オリンピック・フィギュアスケート男子フリーで、前人未踏の4回転アクセルに挑んだ羽生結弦選手にまつわるエピソードを紹介する。

ユーミンも泣いた 羽生の4回転半挑戦がもたらしたもの

【北京五輪2022】<フィギュアスケート 男子FS フリースケーティング>羽生結弦のフリースケーティングの演技=2022年2月10日、首都体育館 写真提供:産経新聞社

日本オリンピック委員会(JOC)を通じて、2月14日の午後6時半から、北京市内のメディアセンターで記者会見を開くと発表した羽生結弦。JOCによると、今回の会見は「報道各社からの取材申請が多かったため」であり、気になる進退に関する発表ではなく、あくまで北京五輪の総括になる模様です。

しかし、いまも興奮がさめやりませんが、10日に行われたフィギュアスケート・男子フリーは、冬季五輪史上屈指の名勝負でした。その中心になったのは、まぎれもなく羽生です。

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『明らかに前の大会よりも、いいアクセルを跳んでいましたし。もうちょっとだったなって思う気持ちも、もちろんあるんですけど、でも、あれが僕の全てかなって』

~『スポニチアネックス』2022年2月10日配信記事 より(羽生結弦コメント)

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世間の最大の関心は、これまで公式には誰も決めたことがない「4回転アクセル」(=4回転半ジャンプ)を、羽生が五輪3連覇の懸かる大舞台で初めて決められるかどうかでした。「歴史の目撃者になろう」……そんな思いで中継画面を見つめていた方も多いのではないでしょうか?

フィギュアスケートにはサルコー、ループ、ルッツなど6種類のジャンプがあり、そのなかでアクセルは最高難度のジャンプです。基本、ジャンプは後ろ向きに踏み切り、後ろ向きで着氷しますが、唯一アクセルだけは前向きに踏み切るため、他のジャンプより半回転多く回ることになります。

他の5つのジャンプにおける4回転はいまや珍しくないですが、「4回転半」が必要な4回転アクセルだけは達成者が皆無。高度な技術に加え、人間の限界に迫る強靱な体力が要求されるため、挑戦した例すらほとんどありませんでした。

手堅く3連覇を狙うなら、前人未踏の技にわざわざ挑む必要はありません。にもかかわらず、羽生は「北京では4回転アクセルを決めて勝つ」とずっと口にして来ました。常に最高峰を目指す……それがスケーター・羽生結弦のアイデンティティだからです。

ショートプログラム(SP)では、最初のジャンプに踏み切る直前、他のスケーターが開けた氷の穴にはまるという不運もあって、まさかの8位と出遅れてしまった羽生。五輪初出場ながらSP2位に入った鍵山優真、3位の宇野昌磨とは対照的な結果になりました。

いずれにせよ、フリーでは4回転アクセルを跳んで、勝負の行方は天に任せるのみ。羽生が選んだプログラムは、2シーズン連続となる「天と地と」でした。これは、川中島の戦いで武田信玄と相まみえた上杉謙信を中心に、戦国時代を描いたNHKの大河ドラマ「天と地と」(1969年放送)がモチーフになっており、羽生は氷上で謙信公を演じます。

群雄割拠の戦国時代、知略を尽くした戦いで「軍神」と呼ばれた謙信公と、ストイックなまでにスケートに打ち込み、前人未踏の技に挑む羽生には、たしかに「求道者」という点で重なるところがあります。羽生自身も、謙信公への思いについて、こう語っています。

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『上杉謙信公の戦いへの考え方には美学や、犠牲があることへの葛藤がある。最終的に出家し、悟りの境地までいった謙信公の価値観と(自身の考え方は)少し似ているのかな』

~『時事ドットコム』2022年2月10日配信記事 より

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コロナ禍で人々がさまざまな苦難と戦っているいま、みんなを勇気づけたいという思いもあって、4回転アクセルに挑んだ羽生。無難な道を選ばず、常に「戦う姿勢」を見せ、道なき道を行くのは、謙信公の深い影響を感じずにはいられません。

迎えたフリー本番。羽生は冒頭、予告どおり4回転アクセルに挑みましたが、着地ができず転倒。直後にもう一度転倒しましたが、後半は立て直して高難度の技を次々に決め、最後は両手を突き上げ、演技を締めくくりました。刀を収める仕草も見せた羽生は、滑走を終えた時点で暫定トップに。

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「ミスしないってことは大切と思いますし、そうしないと勝てないのは分かるんですけど、でも、ある意味、あの前半2つのミスがあってこその、この『天と地と』という物語が、ある意味できあがっていたのかな」

~『スポニチアネックス』2022年2月10日配信記事 より(羽生結弦コメント)

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謙信公のように我が道を行ってこそ、自分のスケートは完結する……王者にこんな「攻めのスケート」を見せられて、後続の選手たちが燃えないわけがありません。宇野、鍵山、ネイサン・チェンが総合点で次々と上回り、最終的に羽生は4位に。3連覇はならず、メダルも逃しました。

圧巻だったのは、銅メダルの宇野も、銀メダルの鍵山も、最後に滑った金メダルのチェンも、全員が攻めの演技に徹し、自分が滑り終えた時点で首位に立ってみせたことです。ライバルが見せた最高の演技に対し、さらにそれ以上の演技で凌駕するというハイレベルな連鎖。

今回、表彰台に羽生の姿はなかったものの、この連鎖の起点になったのは彼であり、メダル以上に価値のあることをやってみせたと思います。素晴らしい戦いを見せてくれた羽生に、そしてメダリスト3人に、心からありがとう。

今回銅メダルに輝いた宇野は、フリー終了後、羽生についてこう語っています。

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『日本のフィギュアスケート男子、フィギュアスケート界をずっとゆづくんは引っ張っている。僕にはみなさんの思い、プレッシャーを背負って競技するのはできない。ゆづくんにしかできない。技術的にレベルが上がっている中で、フィギュアを続ける年齢が短くなる。時代が変わる中で、ずっとトップに居続けるゆづくんはすごい。その中でさらにトップをという姿勢はまねできるものではないと思っています』

~『日刊スポーツ』2022年2月10日配信記事 より

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羽生が挑んだ4回転アクセルは、採点表の上では「4回転半の回転不足」と判定されました。回転が足りず、着氷もできなかったものの、跳んだジャンプの種類としては、国際スケート連盟公認の大会で初めて「4回転アクセル」の認定を受けたのです。

これによって、これからのフィギュア界は「誰が最初に4回転半回り、着氷まで持ち込めるか」という新たなフェーズに入りました。羽生の挑戦は決して徒労に終わったのではなく、歴史の扉を開ける第一歩になったのです。

いまの日本社会は、前例のないチャレンジに対して、応援するよりも先に「無理だ、できっこない」と冷ややかな評価を浴びせたり、足を引っ張る例も目立ちます。出る杭は打つ世の中で、羽生が見せた果敢な挑戦は、困難なことに挑む人たちを勇気づけるものであり、それこそがスポーツの持つ力ではないでしょうか。

最後に、この戦いをTV中継で観て、涙を流したアーティストがいます。松任谷由実さんです。ユーミンも、フォークでも歌謡曲でもない新しい音楽を自分で創り、のちのJ-POPにつながる「ニューミュージック」というジャンルを切り拓いた先駆者。孤独な戦いを続ける羽生にシンパシーを抱かずにはいられなかったのでしょう。自身のツイッターでこう記しています。

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『羽生選手の演技に、涙がぼろぼろ止まらなかった。倒れても、倒れても、崩れない強靭な"美"が、日本人を、人類を支えているんだと、確かに思えた。メダリスト達以上に、私にとって価値あるものだった』

~松任谷由実 公式Twitter(2022年2月10日の書き込み)より

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