佐々木朗希が挑戦! 江夏の「球宴9者連続奪三振」にまつわる「4つ」の意外なトリビア

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話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、51年前のプロ野球・オールスターゲームで、江夏豊投手によって樹立された大記録「9者連続奪三振」にまつわる、隠れたエピソードを紹介する。

佐々木朗希が挑戦! 江夏の「球宴9者連続奪三振」にまつわる「4つ」の意外なトリビア

プロ野球、阪神タイガース・江夏豊投手、オールスター第1戦 全パから江夏豊投手が連続9三振奪取の新記録=1971年7月 写真提供:産経新聞社

今年(2022年)もプロ野球・夢の球宴「オールスターゲーム」の季節がやってきました。残念ながら、開催直前に巨人で新型コロナウイルスの集団感染が発生し6選手が出場を辞退。さらに原辰徳監督も陽性判定を受け、こちらも辞退。他球団でも感染による辞退者が相次いだのは、仕方がないとは言え残念です。

それだけに、出場する選手には「これぞオールスター」と呼ぶにふさわしいプレーを期待したいところ。第1戦は7月26日に福岡PayPayドームで開催されます。注目はやはり、パ・リーグ先発投手部門でファン投票1位に輝いたロッテ・佐々木朗希のピッチングです。

プロ3年目の佐々木は、ここまで6勝を挙げ、4月にプロ野球28年ぶりの完全試合を達成。その試合で同時に「13者連続奪三振」というとてつもない日本記録もマークしています。

「連続奪三振」と「オールスター」といえば思い出すのが、日本プロ野球史のなかでも伝説中の伝説、1971年の第1戦で阪神・江夏豊が樹立した「9者連続奪三振」です。オールスターでは、投手の登板イニングは原則3回までと決められています。この3回をすべて3者三振に仕留めてみせた投手は、球宴の長い歴史のなかでも江夏ただ1人。いかに難しい記録かがわかります。

過去、1984年の第3戦で、江川卓(巨人)が「8者連続」までいったことがありましたが、9人目の近鉄・大石大二郎にセカンドゴロを打たれ、2人目の達成はならず。それからさらに38年が経った今年、再び“奇跡の再現”を果たしてくれそうな投手が出現したのですから、ワクワクしない理由がありません。

ただし、今回はロッテ・井口資仁監督もベンチに入っていますので、佐々木をどこまで投げさせるかについては、かなり慎重になると思われます。連続奪三振が続いていなければ最大2イニングと思われますが、6者連続奪三振となった場合、今回は「三振が奪えなかった時点で交代」という条件付きで3イニング目も行かせるような気がしますけれど、果たして……? 試合が楽しみでなりません。

ところで、その51年前の「9者連続奪三振」については、すでにさんざんあらゆるメディアで語られていますし、本人もインタビューで何度も当時のことを振り返っています。

とはいえ、もう半世紀以上昔の話とあって、野球ファンの間でも意外と知られていない事実もいくつかあります。いい機会ですから、この偉大な記録にまつわる「トリビア」をあらためてご紹介しましょう。……以下の事実、あなたはいくつご存知ですか?

(1)「江夏はこの年、前半戦不振だった」

1971年、江夏はプロ5年目でした。過去4年の成績は、1年目(1967年)から順に、12勝13敗→25勝12敗(最多勝)→15勝10敗→21勝17敗。先発とリリーフの両方をこなし、江夏はこの時点ですでに、兼任監督の村山実と並ぶ阪神投手陣の大黒柱でした。

ところが……江夏はこの年、持病の心臓病が悪化した影響もあり、前半戦は6勝9敗と不振に陥っていたのです。それでもオールスターにはファン投票で選出。球宴前、江夏はある顔見知りのスポーツ紙記者から、こんな挑発的な言葉を投げかけられました。

『記者は「ようそんな成績で出てきたな。ちょっとお客さんが喜ぶようなことをやってみな」とたきつけてくる。自分がお客さんを喜ばせるとしたら三振しかないだろう――』

~『日本経済新聞』「私の履歴書」江夏豊 2017年12月20日配信記事 より

この記者は、不振の江夏にハッパをかける意味で言ったようで「お客さんが喜ぶようなことをやってみな」という言葉の裏には「お前が球宴を盛り上げないでどうする?」という愛情を感じます。江夏もこれに発奮。「じゃあ、パのスターたちを全員三振に仕留めてみせようか」という気になったそうです。この記者には感謝するほかありません。

(2)「江夏は記録達成の前に、自ら本塁打を打った」

球史に残る名投手はバッティングも得意なことが多いですが、江夏もそうでした。第1戦に先発した江夏。当時まだDH制は導入されていなかったので、投手も打順が回ってくれば打席に立ちました。

初回、パの1~3番を三振に仕留めた直後の2回、走者を2人置いた状態で江夏は打席に。ここで江夏は、パ・リーグ先発の米田哲也(阪急)から3ラン本塁打をかっ飛ばしてみせたのです。

2年後の1973年、ノーヒットノーランを達成した試合で、自ら試合を決めるサヨナラホームランを放った江夏。格好良すぎますが、実はその前に、9連続奪三振の試合でもみごとな打棒を披露していたのです。

(3)「実は“15者連続奪三振”を達成 止めたのはノムさんだった」

この試合、江夏に三振を喫したパの打者は以下のとおりです。

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<1回>
有藤通世(ロッテ)・基満男(西鉄)・長池徳二(阪急)

<2回>
江藤慎一(ロッテ)・土井正博(近鉄)・東田正義(西鉄)

<3回>
阪本敏三(阪急)・岡村浩二(阪急)・加藤秀司(阪急、のちに英司)

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昔からパ・リーグを観ているオールドファンでないとピンとこないかも知れませんが、いずれもそうそうたるスラッガーばかりです。

ただ不思議なのは、3回の最後の打者。投手の米田に打順が回ったので、当然代打ですが、パ・リーグの指揮を執っていたロッテ・濃人渉監督(前年のパ優勝監督)は阪急の若手・加藤秀司を起用したのです。江夏はのちにこう語っています。

『PL学園出の加藤は同学年だが、社会人を経由し、この年がレギュラー1年目だった。このころの加藤はブンブン振り回すタイプ。パのベンチには野村克也さん(南海)や張本勲さん(東映)が控えていた。しかし加藤なら三振は取れる』

~『日本経済新聞』「私の履歴書」江夏豊 2017年12月20日配信記事 より

パが不名誉な記録を阻止したいなら、野村か張本を代打に出すべきだったのでは? と思いますし、江夏もどちらかが出てくると予想していたそうです。なので代打・加藤と聞いた瞬間、記録達成を確信したとか。

おそらくですが、試合がまだ序盤だったので、後半に出る予定だった野村・張本はこの時点で十分な準備をしていなかったのと、阪急の本拠地・西宮球場での試合だったので、3回は阪急勢を揃えた、ということなのでしょう。大記録達成の裏には、こういう微妙なアヤもあったりします。

そして、加藤から奪ったこの「9個目の三振」は、この試合だけ見ると9個目なのですが、江夏は前年・1970年のオールスターゲーム第2戦に先発した際、2回途中から3回まで「5者連続三振」を記録しているのです。ちなみにその顔ぶれはこちら。

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<2回>
有藤通世(ロッテ)・長池徳二(阪急)

<3回>
池辺巌(ロッテ)・張本勲(東映)・野村克也(南海)

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このときは張本・野村からも、しっかり三振を奪っていました。この次のオールスター登板が「9者連続」を達成した1971年の第1戦。つまり、加藤から奪った三振は、2試合またぎで「14者連続」だったのです。

さらに第1戦の3日後、江夏は第3戦にも6回からリリーフで登板。まずロッテ・江藤慎一を三振に仕留め、これで3試合またぎの「15者連続奪三振」を記録。佐々木朗希のレギュラーシーズン日本記録「13者連続」を2つも上回るとんでもない偉業です。どこまで続くのかと思いきや、江藤の次に打席に立ったのは、南海の選手兼任監督にして主砲・野村克也でした。

野村は何とか三振を阻止しようと、バットを短く持って江夏の球をバットに当てセカンドゴロに。これで連続奪三振の記録はストップしました。ここで思うのは、もし第1戦の代打が加藤でなくノムさんだったら、やはりバットを短く持ってコツコツ当てに行っていたのでしょうか? もしそうなら、この大記録は阻止されていたかも知れません。

そして、このオールスターから5年後の1976年、江夏は阪神から南海へ電撃トレード。野村監督の下で「リリーフエース」として新たな道を歩むことになります。

(4)「セ・リーグ投手陣は“継投ノーヒットノーラン”を達成した」

江夏の記録は言うまでもなく球史に残る素晴らしいものですが、もう1つ、同時に達成された偉業は、意外と語られることが少ないようです。

実は江夏のあとを受けて、4回以降に登板したセ・リーグ投手陣も好投。渡辺秀武(巨人)→高橋一三(巨人)→水谷寿伸(中日)→小谷正勝(大洋)の4投手は、パの打者に1本のヒットも許さないまま完封。つまり「継投によるノーヒットノーラン」を達成したのです。これはオールスター史上初の快挙でした。

セ投手陣が許したランナーは、失策と四球による2人だけ。江夏の9者連続奪三振によるダメージが尾を引いたのでしょうが、それでもあとを受けた4人の奮投は讃えられてしかるべきです。ぜひこの記録についても、覚えておいていただけると幸いです。

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