「人生先発完投」 “マサカリ投法”村田兆治さんが遺したもの
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話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、11月11日に訃報が伝えられた元ロッテオリオンズの名投手・村田兆治さんにまつわるエピソードを紹介する。
11月11日早朝、飛び込んできたニュースに絶句してしまいました。現役時代、「マサカリ投法」で知られたロッテの元エース・村田兆治さんの自宅から未明に出火。村田さんは意識不明の状態で発見され、病院に搬送されましたが死去。72歳でした。
いったいなぜこういう事態になったのか、現場検証を待たないとわかりませんが、球史を彩った昭和の大投手がこういう形で人生を終えるとは、本当に残念でなりません。
村田さんは、還暦を過ぎてからもたびたび始球式のマウンドに上がり、63歳だった2013年には、何と135キロを計測。「まだ現役でやれるんじゃないの?」という声も上がったほどです。70歳になった2020年も、ロッテ戦のマウンドに上がり、球速表示こそ出ませんでしたが、力のある真っ直ぐを投げファンの拍手喝采を浴びました。
なぜ高齢になってもそんな球が投げられたのかというと、村田さんは引退後もトレーニングを欠かさなかったからです。晩年は、2008年から始めた「全国離島交流中学生野球大会」をライフワークにしていた村田さん。今年(2022年)も8月に新潟県佐渡市で大会を行い、中学生の前でフォークを披露してみせました。少年たちのお手本であるためには、体を鍛えておかないといけない……その生き様はまさに、座右の銘である「人生先発完投」そのものでした。
広島出身の村田さんは、1967年のドラフト会議で、福山電波工業高(現・近大福山高)から東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)にドラフト1位で入団。1990年まで23年間プレーし、通算成績は604試合登板、215勝177敗33セーブ、防御率3.24でした。
1970年、1974年と、ロッテの2度のリーグ優勝に貢献し、1974年、中日との日本シリーズでは抑えに回って活躍。日本一に王手を掛けた第6戦では一転先発登板。完投勝利を挙げ、胴上げ投手になっています。
このときのロッテの監督が、村田さんが師と仰いだ400勝投手・金田正一さんでした。金田監督のもとで、翌1975年にセーブ王を獲得。この年と1976年に2年連続で最優秀防御率のタイトルも獲得しています。1976年は18完投・5完封を記録し21勝。1981年には19勝を挙げ、初の最多勝に輝きました。
村田さんの武器は、大木を真っ二つに割るような「マサカリ投法」から投げ下ろす剛速球と、落差のあるフォークでした。このフォークは、もともとの指の長さを活かしたもので、ボールを挟む人差し指と中指の間を拡げるためにナイフで切ったという逸話も残っています。あの野村克也さんですら「村田のフォークは、わかっていても打てない」と言ったほど。
その武器を駆使して、ロッテのエースとして君臨した村田さんでしたが、15年目の1982年に右ヒジを痛めてしまいます。国内では治療法が見つからず、治す方法を必死で探した村田さんは、米国のスポーツ医学の権威・ジョーブ博士の存在を知り渡米。「左ヒジのじん帯が切れている。手術以外に治療法はない」と告げられ「トミー・ジョン手術」を受けることになりました。
左手首の腱を取り出して、右ヒジを切り開いて腱を移植、再建する手術で、いまではポピュラーなものになりましたが、当時の日本ではヒジにメスを入れることはタブーとされていた時代でした。また、成功するという保証もありません。それでも、村田さんがメスを入れる決断をしたのは、こう考えたからです。
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『手術に失敗しても、ほかの日本の選手にとって先例になる。やる価値はある。少しでも可能性があれば、やってみよう』
~『週刊ベースボールONLINE』2019年6月29日配信記事 より
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技術が進んだいまでは術後の負担も軽くなりましたが、村田さんが手術を受けた当時はしばらく高熱が出て、小指が腫れ上がったそうです。さらに、辛いリハビリも待ち受けていました。その辛さを乗り越えることができたのは「もう一度マウンドに立って勝ちたい」という強い思いがあったからです。
手術を受けた1983年は、プロ入りして初めて登板なしに終わりましたが、1984年、1軍に復帰。5試合に登板し0勝1敗でしたが、再びマウンドに立つことができました。
そしてヒジの状態が戻った1985年、村田さんはいよいよ本格復帰を果たします。4月14日の西武戦で先発した村田さんは「100球以上投げないように」というジョーブ博士の指示をあえて無視。9回まで155球を投げきり、待ちに待った完投勝利を挙げたのです。人に見られないよう、ベンチ裏に駆け込み、大粒の涙を流した村田さん。
実に1073日ぶりの勝利でしたが、さらに7月7日の南海戦まで何と11連勝。中6日で日曜日の登板がしばらく続いたので「サンデー兆治」の異名を取りました。村田さんはこの年、17勝5敗の成績で「カムバック賞」を受賞しています。同時に「10完投」を記録したことも見逃せません。
この復活劇は当時、プロ野球の枠を超え、一般のニュースとしても大きく報道されたのでご記憶の方も多いでしょう。村田さん観たさに球場に足を運んだ人も多く、普段は観客がまばらなロッテの本拠地・川崎球場も、村田さんの登板日は盛況になりました。
村田さんが凄かったのは、ヒジをかばって技巧派に転向するのではなく、復帰後も以前と変わらぬ豪快なマサカリ投法を続け、投手としてのスタイルを変えなかったことです。あくまで自分が理想とする「先発完投」を目指した村田さん。「昭和生まれの明治男」と呼ばれた、いい意味での頑固さがここにも窺えます。
そんな村田さんにも、ユニフォームを脱ぐ日がやってきました。プロ23年目の1990年、40歳になった村田さんは、10月13日の西武戦に先発。川崎球場には大投手の最後の勇姿を観ようと、2万2000人の観衆が詰めかけました。
あいにくの雨でしたが、清原やデストラーデら強打者が並ぶ西武打線を相手に、5回を無失点に抑えます。この試合は5回コールドとなり、村田さんは記録上「完封勝利」で最後のマウンドを締めくくることができました。
試合後の挨拶で、村田さんはこう語っています。
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『私は今日をもってマウンドを降りることになりました。私の人生の喜びも悲しみも、すべてこのマウンドの上にありました』
『自分のイメージする球が投げられなくなった。とにかくプロとして恥ずかしくない終わり方ができました。それができたことに悔いはないと思います』
~『週刊ベースボールONLINE』2017年10月13日配信記事 より
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「人生先発完投」の言葉どおり、まさにすべてを全うした上での引退でした。
この引退試合での勝利で、村田さんはシーズン10勝に到達。「10勝8敗2セーブ」が引退した年の成績です。8月には1-0の完封勝利を挙げていますし、前年の1989年には13年ぶり3度目となる最優秀防御率のタイトルを獲得。「まだまだやれるのに」と惜しむ声もありましたが、自信を持って投げた球を若手に打ち込まれるようになり、潔く引退を決意したのも村田さんらしいところです。
村田さんの何よりの功績は、ヒジにメスを入れたあと59勝を挙げて、同じくヒジを痛めた多くの投手たちに「自分も復活できるかも知れない」という希望を与えたことです。また野球選手のみならず、逆境に置かれた人たちに勇気を与えたことも忘れてはなりません。
村田さん、豪快なピッチングをありがとうございました。あなたこそ、力と力の勝負で魅せるパ・リーグの象徴だったと思います。ご冥福を祈ります。