話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、38年ぶりの日本一を達成した阪神タイガースの胴上げ投手、守護神の岩崎優投手にまつわるエピソードを紹介する。
『一日でも早く1軍に上がり、タイガースの勝利、優勝への戦力になれるよう頑張りますので宜しくお願いいたします』
~阪神タイガース公式サイト(2013年12月9日配信記事)より
いまからちょうど10年前、2013年12月に行われた「阪神タイガース2014年度新人選手入団発表会」。この場で上記の挨拶をしたのはドラフト6位で指名された国士舘大学の岩崎優だ。それから10年後、下位指名の投手はまさに「優勝への戦力」としてペナントレースで最多セーブのタイトルを獲得。さらにはリーグ優勝時も、そして日本シリーズでも胴上げ投手になり、阪神タイガースの「38年ぶり日本一」に大きく貢献した。
岩崎優の野球人生を振り返れば、野球エリートとは無縁の歩みを重ね、さまざまな偶然と運が交錯してこの地位に辿り着いたことがよくわかる。
アマチュア時代は無名ながらも、とにかく練習の虫だったという岩崎。指導者からストップをかけられることも珍しくなかったというほど練習に打ち込めたのは、「マウンドに立てる喜び」を誰よりも知るからだった。
その「野球への渇望」は少年時代にまでさかのぼる。野球が大好きだったにもかかわらず、父親の教育方針で、体がまだ未完成な小学生時代は基礎体力づくりを優先させるため、野球クラブへの入部は認められず、水泳で体を鍛える日々だったからだ。
『「水泳を6年間頑張れば野球をやってもいいという約束だったので、もう必死でしたよ」。クロールに背泳ぎ、平泳ぎにバタフライ。あらゆる泳法を完璧にマスターしていたにもかかわらず、中学校では念願の野球人に。「自分は野球を始めた時期が遅かったので、正直焦りもあって……」。6年間たまりにたまった鬱憤(うっぷん)が猛練習の源となっていった』
~『週刊ベースボールONLINE』2018年9月7日配信記事 より
もっとも、この水泳の日々で肩や腕の柔軟性を身につけたというから、父親の先見の明と言えるのかも知れない。
こうして中学校から本格的に野球を始めた岩崎は、地元の静岡県立清水東高校に進学。長谷川健太、武田修宏、内田篤人らを輩出したサッカーの超名門校だけあって、練習グラウンドではサッカー部の使用が優先されることも。結果的に高校時代に甲子園とは縁がなく、3年夏も静岡大会2回戦で敗退。のちの大投手としては寂しい結果に終わった。
国士舘大でも、4年間のうち半分以上が東都2部でのプレー。当時の東都2部の主戦場と言えば、いまはなき神宮第二球場。普段はゴルフの打ちっぱなし場として使われていた場所だ。
『野球で使わないときは、ゴルフの打ちっぱなしにも使われている球場なので。試合前練習に入ろうとしたら、まだボールが残っているときもありましたね。早く神宮球場のマウンドに戻りたいという一心で投げていたのは、いい思い出です』
~『週刊ベースボールONLINE』2018年9月7日配信記事 より
プロ入りに当たっても、大学4年時に手を故障し、本来の投球ができなかったことから、「評価を上げられなかった」と言う岩崎。それでも、最終学年以前から注目していた阪神スカウトの目に留まり、当初は5位指名で打ち切りにする予定だったところを、6位指名でプロに引き上げてもらった。ある意味で幸運なドラフトだったと言える。
小学校時代はやりたくてもできず、高校はサッカー部に遠慮し、大学ではゴルフボールに気を遣う。そんな環境に身を置いてきたからこそ、“阪神タイガースの守護神”という究極のプレッシャー環境であっても、「投げることができる」という大きなモチベーションが上回り、平常心の投球ができるのではないだろうか。
そしてもう1つ、今季の岩崎が「投げることができる」と感じる要因として、同期入団で7月に急逝した横田慎太郎さんの存在も大きいだろう。ペナントレースを制した9月14日、9回のマウンドを託された岩崎は、横田さんが使っていた登場曲、ゆずの『栄光の架け橋』をバックに登場。ファンの涙を誘った。
『亡くなられてから、ヨコの分も背負って戦っていくと決めたので。そうですね、そういう思いでマウンドに上がりました』
~阪神タイガース公式サイト(2023年9月15日配信記事)より
迎えた日本シリーズ第7戦。9回二死。岩崎が最後の打者をレフトフライに打ち取って日本一が決まると、同じ同期入団の梅野隆太郎が横田さんの「24番」の背番号を掲げ、マウンドに一直線。岩崎はそのユニフォームを受け取り、胴上げでは一緒に宙を舞った。
野球に飢えていた少年は、プロ野球でシーズン最後までマウンドに立つことができる、日本一の守護神となった。