#20 ボブ・ホーナー(ヤクルト)衝撃の2試合4発デビュー
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◎1987年5月6日 神宮球場
阪 神 0 0 1 0 2 0 0 0 0 = 3
ヤクルト 1 1 0 1 1 1 1 0 X = 6
HR(阪神)掛布2号
(ヤクルト)ホーナー2号・3号・4号
1987年のシーズン途中に来日し、ヤクルトスワローズでプレー。“赤鬼”の異名を取り、“ホーナー現象”という言葉まで生んだ元メジャーリーガー、ボブ・ホーナー氏の訃報が先日届いた。享年68。その名を聞いて、往時を思い返した方も多いだろう。今回は故人を偲び、来日時の衝撃がいかにすさまじかったかを振り返ってみたい。
そもそもメジャーの主砲クラスが最も脂の乗った時期に日本に来ること自体、異例中の異例であり、しかもホーナーはメジャーリーガーの中でも“超エリート”だった。メジャーのドラフト会議でアトランタ・ブレーブスから全体1位で指名され、マイナーリーグを経ずに(これも異例)1978年にデビュー。いきなり23本塁打を放って新人王に輝いた。
ホーナーはその後もブレーブスの主砲として活躍したが、1986年オフ、FAの権利を取ったときに思いがけないことが起こる。なんとホーナーは、翌年の所属先が決まらないまま翌1987年のシーズン開幕を迎えてしまったのだ。高騰するFA選手の年俸を抑えるため、メジャーの球団オーナーたちが示し合わせてホーナーの獲得を見送ったという説もある。
浪人状態になったホーナーにとって、プレーする場がないのは耐えがたいことだった。ともかくプレーしたいという気持ちから、ホーナーは日本のプロ野球を選択。これにヤクルトが乗った。メジャーの大物スタープレーヤーが来日するというニュースは、当時大きな話題になった。1985年・86年と2年連続三冠王に輝いた阪神の主砲、ランディ・バースが「なんで、あんなスター選手を連れて来たんだ?」と驚いたほどである。
こうして、日本のプロ野球が開幕して間もない1987年春、ホーナーは来日。満を持して5月の連休中、5日のこどもの日に阪神戦でデビューすることになった。ホーナーをひと目見ようと、神宮球場は超満員に。「3番・サード」で先発出場したホーナーは、第3打席、阪神先発・仲田幸司が外角に投じたストレートをとらえると、一見ライトフライかと思われた打球がグングン伸び、そのままスタンドイン。ライトポール際に突き刺さる来日1号となった。当時、映像を観て「え、あの当たりで入っちゃうの?」と驚いた記憶があるが、さすがはメジャーの主砲。力で押し込んだ、名刺代わりの一発だった。
しかし、ホーナーが凄かったのはここからである。翌6日、阪神との2戦目。阪神の先発は当時のエース・池田親興だった。第1打席、ホーナーは、やや外寄りのスライダーを叩きレフトスタンドへ2号アーチを放つ。第2打席は四球だったが、第3打席は再びレフトへ3号。さらに第4打席はセンターへ4号。1人で3発を浴びた池田は「もう投げる球がない」とお手上げ状態で、観客も選手もただただ呆然。まさに“黒船来航”である。
翌7日の3戦目は、阪神投手陣が勝負を避けたため不発に終わったが、1日おいて9日、長崎・佐世保球場で行われた広島戦で、ホーナーは初回、白武佳久から5号アーチを放つと、6回には内角へのシュートをとらえ、左翼場外へ6号。デビュー4戦で11打数7安打、うち6本がホームランである。「いったい何発打つんだ?」と球界は騒然とした。
ただ、キャンプを行わずに、いきなり環境の違う異国でプレーしたことはホーナーの体に大きな負担となってのしかかった。ファン投票で選ばれたオールスターゲームは、腰を痛めて出場を辞退。最終的に規定打席には達せず、93試合に出場して打率.327、31本塁打、73打点をマークした。けっこう四球攻めに遭っていたし、フラストレーションも溜まっていたのだろう。結局、この1年だけでホーナーは日本を去り、翌1988年はセントルイス・カージナルスでプレー。しかし本塁打はわずか3本に終わり、1989年に現役を引退した。
引退後ホーナーは、1992年・93年、野村克也監督時代にヤクルトが米国・ユマで行った春季キャンプに臨時コーチとして招かれ、話題になった。「日本では手を抜いてプレーしていた」と誤解する向きも多いが、ホーナーはデビュー直後のインタビューでこう語っている。「(実力の)100%を出し切りたい、燃え尽きたいと思ってプレーしている」。そうでなければ、当時は日米の実力差があったとはいえ、あの成績は残せない。
「野球は野球、日本もアメリカも野球をやることに違いはない」……当時そう語ったホーナー氏は、大谷翔平・村上宗隆の活躍についてどう思っていたのだろうか? R.I.P.
<チャッピー加藤>





