サッカー・奥寺康彦氏 40年前、ドイツの記者から最初に質問されたこととは?

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奥寺康彦

サッカーのドイツ1部リーグの優勝皿「マイスターシャーレ」を持つ奥寺康彦氏。「ブンデスリーガ・レジェンド」に選出され、記者会見を行った=2017年11月6日、東京都港区 写真提供:時事通信

スポーツ界ではかつてのスーパースターを、レジェンドと表現しています。日本人選手として、初めてドイツ1部でプレー。ドイツ1部で活躍し、功績のあった選手へ贈られる、『ブンデスリーガ・レジェンド』に、日本人選手として、初めて同リーグでプレーした奥寺さんが選出されました。これまでローター・マテウスなどそうそうたる面々に続く10人目の快挙です。日本人としてはもちろん初めてのこと。

今季、ドイツ1部では9人の日本人選手がプレーしていますが、奥寺が移籍した1977年の日本は、ワールドカップ出場など実績がない、サッカー後進国。いかに画期的な出来事だったか…。加えて、ドイツリーグは当時、世界ナンバーワンでした。

スカウトしたのは、1.FCケルンのヘネス・バイスバイラー監督。日本代表20人が欧州遠征へ行い、西ドイツでは5人1組で、分散合宿をしたそうです。

「ブンデスリーガの2軍、3軍のチームにまじり、つまらない練習ばかり。そんな時、バイスバイラーさんから、1軍の練習へこないか、と声をかけられた。あとで、わかったけど、それが入団テストだったらしい。もし、テストとわかっていたら、緊張してプレーできなかっただろう」

奥寺さんは、左ウイングでプレーしていた。バイスバイラー監督は、そのポジションを探していたのです。スピードは群を抜いており、ひと目で気にいった。帰国後、オファーが舞い込みます。しかし奥寺には家族がいて、当時、海外移籍など夢のような世界。1度は申し出を断ったものの、バイスバイラー監督が来日して直接、口説いた。同時に、所属していた古河電工、日本協会も強力に後押しし、日本初のプロ選手が誕生。以来、29人がドイツでプレーすることになります。

生まれたのは、秋田県鹿角市。

「観光客もただ通過するだけの、何もないところだった。でも、自然の中で育ったおかげで大きなけがや、病気がこれまで1度もない。両親と故郷に感謝だね」

と懐かしそうに話していました。小学校5年の時、一家は横浜へ。まだ、サッカーは知らない。卓球に熱中する毎日です。中学でも、卓球部へ入りますが、1年生は、試合に出ることが叶わない。つまらないからと、サッカー部へ移る。以降、相模工大付属高を経て、古河電工へ入社し、サッカー部でプレーします。

実は高校卒業時、奥寺さんは芸能界へのあこがれもあった。俳優になりたいという思いがあり、プロダクションのオーディションを「軽い気持ちで受けた」と振り返っています。歌謡審査なども行われ、見事にパス。デビューを待つばかりの状況でしたが、サッカーが忘れられなかった。意外な過去を明かしてくれました。

ドイツへ旅立ち、今年は40年の節目。レジェンドに選ばれ、スポットを浴びたことは、本当に喜ばしい限りです。9年間、3チームでプレー。リーグ優勝やドイツカップなどのタイトルを手中にしました。

「最初、ドイツの記者から日本は、どこにある、と質問を受けた。そういう時代です。でも、バイスバイラーさんから、君のプレーを見たい。君のプレーをチームメートや、観客へ披露しろ-。そういわれて目からウロコが何枚も落ちたんですよ」

と前置きし、

「自慢できるのは、ドイツでイエローカードをもらったのが、5枚だけだったこと。相手のボールをとるのがうまかったからかなぁ」

ニヤリとしました。

11月8日(水) 高嶋ひでたけのあさラジ!「スポーツ人間模様」

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