五十嵐亮太の鉄腕を支えたロケットボーイズ・石井弘寿との絆

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話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、10月11日に「引退を決意」と報じられた、東京ヤクルトスワローズ・五十嵐亮太投手にまつわるエピソードを取り上げる。

【プロ野球ヤクルト浦添キャンプ】ブルペンで高津臣吾監督の言葉に笑顔を見せる五十嵐亮太=2020年2月8日 ANA SPORTS PARK 浦添 写真提供:産経新聞社

毎年、レギュラーシーズン終盤になると聞こえて来るのが、現役引退の報せです。9月にひと足早く、阪神・藤川球児(40歳)が、プレーするのは今季(2020年)が最後と発表。12日には広島のベテラン捕手・石原慶幸(41歳)も今季限りでの引退を発表しました。

そして、11日に報じられたヤクルト・五十嵐亮太の引退。10日までに本人が球団と話し合い決断に至った模様で、近く正式に発表されます。今シーズンはまだ1軍登板はありませんが、12日現在、日米通算で905試合に登板。日本だけでも822試合に投げ、これは歴代7位の記録です。すべてリリーフでの起用で、800試合以上投げて先発が1度もないのは五十嵐だけ。まさに日本球界を代表する「鉄腕リリーバー」と言っていいでしょう。

五十嵐というと「剛速球」。そのイメージを定着させたのは「ロケットボーイズ」の愛称です。00年代前半、五十嵐は2学年上の先輩左腕・石井弘寿とともに150キロ台後半の速球でヤクルトのブルペンを支え、当時の絶対的守護神・高津臣吾(現監督)へのつなぎ役を務めました。

球団は2002年、このコンビの愛称をファンから公募します。驚異的なスピードを連想させる「ロケットボーイズ」は2人にぴったりのネーミングでした。年齢が近いこともあって、ともに切磋琢磨しながら、ヤクルトのブルペンを支えた五十嵐と石井。その後石井は左肩痛に悩まされ、2006年を最後に1軍登板から5年ほど遠ざかります。五十嵐も2006年に右ヒジのじん帯を断裂し、オフにトミー・ジョン手術を受けることに。これも「剛速球」ゆえに支払った代償でした。

2009年オフ、五十嵐がメジャー移籍を決めたことで、ファンが復活を期待した「ロケットボーイズ」は事実上解散。石井は2011年限りで引退し、ヤクルトのコーチに就任しました。一方五十嵐は、3年間のメジャー生活(2012年はほとんどマイナー)を経て、2013年から日本球界に復帰しますが、移籍先はソフトバンクでした。福岡で6年間プレーし、リーグ優勝・日本一にも貢献。ところが、椎間板ヘルニアで出遅れた2018年、オフに戦力外通告を受けてしまいます。

このとき、行き場を失いかけたベテラン・五十嵐に手を差し伸べたのが、古巣・ヤクルトでした。2019年、年俸こそ大幅に減りましたが、10年ぶりにスワローズのユニフォームを着た五十嵐。開幕時は39歳、果たして戦力になるのかという声もありましたが、4月だけで何と5勝をマーク。もちろん、すべてリリーフでの勝利です。

「どんなシチュエーションでも、同じようなピッチングをすることを心掛けている」

リードされた場面でも厭わずに投げ、全力を尽くす。救援勝利の多さは、そんな五十嵐の姿を見て打線が奮起、逆転したからでもあります。「負けている場面でも、五十嵐さんが出て来ると、何か勝てるような気がする」と言う若手もいたほど。

残念ながら5月以降白星は付きませんでしたが、2019年、ヤクルト復帰1年目の成績は、45試合に登板し5勝1敗4ホールド。防御率2.98。チームが最下位に沈むなか、獅子奮迅の働きをしたと言っていいでしょう。そしてこの活躍を支えたのが、「ロケットボーイズ」の相方だった石井コーチでした。

実は五十嵐は、復帰1年目の春季キャンプで、2日目に右ふくらはぎの張りを訴え別メニュー調整となりました。「また出遅れか?」と不安な気持ちが襲うなか、石井コーチはさまざまな練習法を提案。踏み出す左足に体重移動する過程やタイミングなどを細かくチェックし、フォームを修正しました。そんなふうにすぐ修正点を指示できるのも、若いころから五十嵐のピッチングを間近で見て来たからこそです。

昨年(2019年)、開幕直後の4月5日、神宮球場で行われた中日戦で、ヤクルトでは10年ぶりとなる復帰初勝利を挙げた際、お立ち台でファンに「ただいま!」と叫んだ五十嵐は、石井コーチへの感謝を忘れませんでした。

「(石井コーチは)自分が忘れていたことを思い出させてくれる」「僕自身、フォームに迷いがあった。何が悪くて、何が(いいときのフォームと)変わっているのか。キャンプのときから指導してもらった。石井コーチがいなかったら、いまの僕はありません」

五十嵐引退決意の報せを聞いて、集まった報道陣に応対した石井コーチも、五十嵐がなぜこれだけ長くプレーできたのかについて、こう語っています。「常に彼は追求心があって、少しでもうまくなろうという気持ちを持っているがゆえに、(日米通算)900試合以上の登板を成せたと思いますし、長い現役生活ができたんだなと感じました」

剛速球で鳴らしたころは持ち球になかった「ナックルカーブ」は、2012年、アメリカでヤンキース傘下のマイナーチームにいたとき、コーチに「いいから投げてみろ」と無理やり押しつけられたもの。「そんな球、投げられないよ」と思いつつ練習を繰り返すうちに、徐々に進歩。このナックルカーブが、ソフトバンク時代、新たなウイニングショットになりました。

「自分がやっていて足りないと思うことを、気づいたそのときにやっている」と言う五十嵐。今年の春季キャンプでも、プレートを踏む位置を変えてみたり、入団時期は違いますが同学年の石川雅規と意見交換をしたり、常に新しいことを採り入れようと努力し続けました。それを陰で支えた石井コーチ。

五十嵐が引退後、どんな野球人生を歩むかはわかりませんが、願わくば石井コーチとともに今度は指導者としてタッグを組み「第2、第3のロケットボーイズ」を生み出してくれたら、プロ野球はもっと面白くなりそうです。

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