“やんちゃ”な人生……石原慎太郎さん逝く
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「報道部畑中デスクの独り言」(第281回)
ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は、2月1日に訃報が伝えられた石原慎太郎さんについて---
「記者会見は3分間の戦い」
「歌は3分間のドラマ」と言われますが、記者会見の場合はまさに上記の一言が当てはまると私は思います。各社が集まる共同記者会見で、1人の記者に許される時間はせいぜい3分ほど……この限られた短い時間のなかで、いかに「聞きたい一言」を引き出すか? 表情をいかに読み取るか? まさに記者の力量が問われます。
2022年2月1日午後、石原慎太郎さんの訃報が届きました。89歳でした。芥川賞作家、運輸大臣、環境庁長官……さまざまな“顔”があり、イメージは人それぞれかと思いますが、約13年半務めた東京都知事の時代も石原さんの歴史には欠かせません。
「東京から日本を変える」と訴えて都庁に乗り込んだ石原都知事。もう20年以上前になりますが、私は就任直後の1999年8月から2年3ヵ月、東京都庁の担当記者を務めました。その“主戦場”となったのが、毎週金曜日午後に行われる石原知事の定例記者会見でした。
記者としてどう対峙するか?「3分間をどう戦うか」……私は随分鍛えられた気がします。同時に「権力者」である知事と、それをチェックする記者という構図のなかで「人間同士の駆け引き」というものがあり、それを知事もわれわれ記者も、潜在意識のなかで愉しんでいたように思います。
石原さんとのやり取りは数え切れません。都知事としての発言をランキング形式で紹介する番組を制作したこともあります。当時の取材メモをひも解きますと、もちろんまじめな質問もあるのですが、2000年4月、知事就任から1年が過ぎ、こんな質問をしたことがありました。
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(畑中)知事就任から1年を“一言”で振り返っていただきたいということで……。
(石原)そんなん……それは非常によくないよ。そういう注文をするんだ、みんな……。
(畑中)作家出身ということで、「漢字一文字」で表現していただけないでしょうか(笑)。わかりやすいように、よろしければ書いていただきたい。
(石原)そんな、ダメだよ……そんな恥ずかしいことしない、字うまくないから。
(畑中)いかがでしょうか? 漢字一文字、毎年よく……。
(石原)「焦(あせり)」だね。現実はどんどん悪く進んでいるのにね……東京に限らずね。私はこういう立場の人間になったからね、なかなかものごとが早く行かない、もう……うん。まあ、がんばります、どうも。
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怖いもの知らずと言いますか……実はこの日、私は色紙を用意し、石原氏にその「漢字一文字」を書いてもらおうと考えていました。結局、一筆はかなわなかったのですが、その理由が後日わかりました。記者との懇談のなかで、石原さんのメモを偶然見たところ、何やら「でんでん虫」のような文字で、私には解読できなかったのです。「字うまくないから」……石原さん自身、自分の字を「邦文和訳」と自嘲気味に話していました。
さて、この質問から何とか絞り出した回答「焦」は、翌日の朝刊各紙の見出しを飾りました。こういう質問で存在感を示すのもアリかも……私にとっては、転機になった記者会見でした。一方で苦笑しながら絞り出した「焦」の一文字。「憂国の士」石原慎太郎にとっては、まさに本音だったのではないでしょうか。
年末2000年12月の定例会見では、さらに悪乗りしてしまいました。
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(畑中)今世紀最後の……。
(石原)最後の質問?
(畑中)そうなるかも知れませんが。
(石原)そうしよう。
(畑中)今年の最初に「東京の病気が早くよくなりますように」と話していましたが、どうでしょうか? いまの病気は。
(石原)治んないね。そりゃ金欠病はますますひどくなるばかりだ。小康状態のように見えるが、とてもじゃないけれどそんなもんじゃないな。税収が増えたから何となくみんなうきうきして、政党も何か、決して「たが緩んじゃいかん」とか「こういうときこそ締めて行こう」と言うけれど、片っ方じゃいろいろ復活折衝をして来るしさ。ははは。
(畑中)そうした上で、知事として政治家として、作家として……。
(石原)作家は関係ないよ。
(畑中)来年を、来世紀をどういう世紀に、1年にしたいかというのを……漢字一文字というのは前回やりましたので。
(石原)ハッハッハッハッハ。
(畑中)ちょっとやさしくしまして……。
(石原)うん。
(畑中)漢字二文字で表していただきたい(笑)。
(石原)それは……そんな二文字でも三文字でもねえ、そういう質問は事前に通告しなきゃだめだよ(笑)。書いたものを読み上げんだ。まあね……うーん……あとであとで。
(畑中)いや、ここで……。
(石原)……来世紀なんてあなたね、いつまで生きるかわかんないんだし。いつまでやっているかわかんないんだし。
(畑中)在任期間中では。
(石原)まあ在任期間というか、2年に限って言うとね、第1期のね……そりゃね、え……「七難八苦」だね。
(畑中)四文字。
(石原)山中鹿之助。そんなもんちっとも与えてもらいたくないし、おれは三日月さんに祈ったことはないけれど、どう考えたってそれしかないもの、目の前に。
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「七難八苦」とは「さまざまな苦しみや困難」のこと。尼子家家臣であった山中鹿之助が、三日月に「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったことから生まれた言葉です。回答を避けようとする石原知事に食い下がった上での「七難八苦」……この辺りの語彙の豊富さと教養はさすがだと感じました。
一方、これはいまにも通じる話かと思います。2001年春、首都圏の電車内ではマナー違反などによるトラブルで乗客が暴行を受け、死亡する事件が相次ぎました。これらを受けた6月の会見でのやりとりです。
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(畑中)首都圏の電車のなかでトラブルがあって、死に至るケースが頻発していますが。
(石原)交通機関のなかだけじゃなくてね、道路の上でもそうだし、人間社会のいちいち言葉で確認しなくても済むはずの、黙約みたいなものがおろそかにされてね。こういう子どもたちを顰蹙(ひんしゅく)したり嘆くだけじゃなしに、一体どうしてそういう人間ができて来たかを考えるのは、われわれの責任なんだから。結局教育について考え直すとか、躾について考え直すとか、まさに「心の東京革命」の問題でございます。
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東京都知事としての石原さんはディーゼル車対策、羽田空港国際化、東京マラソン創設など、東京都の枠を超えた実績も少なくありませんが、「心の東京革命」……教育改革にも並々ならぬ意欲を見せていました。
私が都庁担当だったのは2年3ヵ月でしたが、その後も節目で石原さんには会う機会がありました。2014年にはニッポン放送開局60周年番組で約1時間、話を聞きました。作家デビューのエピソードから、次世代を生きる人への提言など盛りだくさんでしたが、印象に残っているのは「モノを書くことは私の人生」「ホッとするときはモノを書いているとき。ストレスが解消されて頭がすっきりする」と話していたこと。さまざまな顔を持つ石原さんですが、本来の姿は作家でした。
石原さんが晩年著した小説に『湘南夫人』があり、私も読みました。ある上流階級の一族を描いた昭和の香りがするストーリーですが、舞台となった湘南の海の瑞々しい描写は、石原さんならでは。訃報を受けて、長男の伸晃さんが「最後まで作家として、仕事をやり遂げた」と話しましたが、まさにギリギリまで健筆をふるっていたのだと思います。
最後に石原さんに会ったのは、2020年暮れ、ニッポン放送の新年特番収録のとき。亀井静香さんとの対談(進行役は森田耕次デスク)に立ち会いました。
スタジオに入るやいなや「俺はもう死ぬよ!」と、冗談ともつかぬ“慎太郎節”でしたが、その足取りはゆっくり。傍からは辛そうに見えるのですが、周囲が介添をしようとすると、「来るな!」と拒否。「まだまだ俺は……」という矜持のようなものを感じました。
収録後、局内のトイレを案内した際、私は開けた入口のドアを支えて待っていました。それに対し、石原さんは「ありがとう」と小さい声で礼を言ってくれました。車に乗り込むときも石原さんは「俺はもう死ぬよ!」とつぶやきましたが、私は「まだまだ吠えて下さいよ」と応じました。これが私にとって最後のやり取りになりました。
私は石原さんをラジオ記者という距離感で見て来ました。その思想・信条については賛否ありますが、晩年「暴走老人」と言われようと、その実は終始「やんちゃな少年」でした。それが石原慎太郎流「男の美学」でもあったと感じます。
「またお前か!」「暇なんだなお前も」……記者時代、とにかく発言を逃すまいと石原さんに張り付き、時にあきれられることもありましたが、そう言いながらも、ニヤっといたずらっぽく少年のような笑顔を見せていたことが思い出されます。もうその笑顔を見ることはできません。
都庁担当の2年あまりは、私にとって記者としての「青春時代」、その得がたいひとときを過ごせたご縁に感謝です。合掌。(了)
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畑中秀哉(はたなか・ひでや)
■ニッポン放送 報道記者・ニュースデスク。
■1967年、岐阜県生まれ。早稲田大学卒業後、1990年にアナウンサーとしてニッポン放送に入社。
■1996年、報道部に異動。警視庁担当、都庁担当、番組ディレクターなどを経て、現在は主に科学技術、自動車、防災、経済・政治の分野を取材・解説。
■Podcast「ニッポン放送報道記者レポート2022」キャスター。
■気象予報士、くるまマイスター検定1級。