#13 阪神 平成の3連発 (濱中・片岡・アリアス)
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◎2003年5月9日 横浜スタジアム
阪神 5 0 6 0 0 0 0 0 0 = 11
横浜 0 0 0 0 0 0 0 1 1 = 2
HR(阪神)濱中9号 片岡4号 アリアス7号
「あのバックスクリーン3連発ですか? 当時は観ていなかったけど、ビデオなんかは何度も観ましたよ」
これは2003年、開幕から阪神の4番を務めた濱中治(当時の登録名は「濱中おさむ」)の当時のコメントだ。1996年、和歌山県立南部高校からドラフト3位で入団した濱中は、このときプロ7年目の24歳。1985年、リーグ優勝&日本一の契機になった伝説の「バース・掛布・岡田 バックスクリーン3連発」は濱中が6歳のときの出来事。阪神は栄冠から遠ざかって久しくなっていた。
名将・野村克也監督の下でも暗黒期を脱することはできず、2001年オフ、4年連続最下位に終わったチームを再建すべく招聘したのが星野仙一監督だった。星野はこのとき中日の監督を退任したばかり。同一リーグだけに通常は間を置くところだが、阪神球団の上層部はそれだけ必死だった。
このオファーを意気に感じ、就任を引き受けた星野監督はさっそく補強に乗り出した。まずは日本ハムからFA宣言した片岡篤史を、自ら交渉に顔を出し獲得に成功。さらに2000年・2001年とオリックスで2年間通算64本塁打を放ったジョージ・アリアスも獲得した。就任1年目の2002年はいきなり開幕7連勝を飾るなど、首位を走ってファンを大いに沸かせたが、後半は息切れして失速。4位に終わった。そこでオフは大幅に選手を入れ替え、広島から金本知憲をFAで獲得。十分な戦力を整えた星野監督は、翌2003年、「1番・今岡誠、2番・赤星憲広、3番・金本、4番・濱中」というオーダーを組んだ。
4番に抜擢された濱中は当時、星野監督からよくこんな言葉を聞かされたという。「迷ったら、前に出ろ」。悩んで後退するより、プラス思考で前を向いて野球をやることが大事なんだと選手たちに説いた星野監督。前向きな気持ちがナインの間に浸透した阪神は、今岡・赤星の1・2番コンビでチャンスを作り、後続の金本、濱中、片岡、アリアスらが返すシーンが何度も見られ開幕ダッシュに成功。この年、今岡は打率.340で首位打者、赤星は62盗塁で盗塁王に輝いている。
阪神が快調に首位を走る中、5月9日、敵地で迎えた横浜戦。濱中は4月22日に8号アーチを打ってからブレーキが掛かり、以降13試合ホームランが出ず不振に陥っていた。この日、横浜の先発は濱中と同じ和歌山出身の吉見祐治。高校時代にしのぎを削ったライバルだ。この年、濱中は吉見に相性がよく、この時点ですでにホームランを2本打っていた。「思い切って振っていこう」と開き直った濱中は3回、高めのボール球を強振! 打球はバックスクリーン左に飛び込んだ。実に58打席ぶりの9号アーチで、新たな“伝説”の幕が切って落とされた。
続く5番・片岡も、左打者ながら逆方向の左翼スタンドに4号ソロを叩き込み、6番・アリアスも、吉見のスライダーをすくい上げると、打球は左翼スタンド最上段に突き刺さる特大の7号アーチに。1985年のバックスクリーン3連発以来、18年ぶりとなる猛虎打線のホームラン3連発に、ファンは「18年ぶりの優勝も間違いなしや!」と沸き立った。
濱中もこの一発を機に再び調子を取り戻し、5月中旬までに11本塁打を放っていたが、5月20日の広島戦(甲子園)でアクシデントが起こる。一塁牽制で頭から帰塁した際に右肩を亜脱臼。せっかくつかんだ4番の座、「ここで休むわけにはいかない」と、しばらく代打で出場し様子を見ながら、6月13日の巨人戦(甲子園)に「4番・右翼」でスタメン復帰を果たした。ところが、完治しないうちに出場したことが裏目に出て、送球の際に右肩を完全に脱臼。さらに「右肩関節唇損傷」と診断され、レギュラーシーズンを棒に振ってしまう。星野監督には「何やっとんじゃー!」と叱られたそうで、それだけ期待をかけられていた証拠だ。
阪神は7月8日、オールスターゲーム前に早くも優勝マジックが点灯。しかし濱中の姿はグラウンドにはなく、ファン投票で選ばれた球宴は泣く泣く辞退した。7月に手術を受け、9月、ダイエーとの日本シリーズで試合に復帰。DHと代打で出場し1安打を放ったが、18年ぶりの日本一は3勝4敗で逃した。濱中は以後も故障と不振に悩まされ、2007年オフ、オリックスにトレードで移籍。2011年、ヤクルトで15年間の現役生活にピリオドを打ったが、もしあの脱臼がなかったら……濱中が阪神で残した“伝説”は「平成の3連発」だけではなかっただろう、とその才能を惜しむファンは多い。
<チャッピー加藤>





