伝説の「アリ猪木戦」から40年! 幻に終わった“世紀の 珍ドリームマッチ”とは? 【ひでたけのやじうま好奇心】

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先ごろ(5月16日)「日本記念日協会」が6月26日をある「記念日」に認定しました。
いったい、なんの記念日なのか、ご存じでしょうか?

正解はズバリ「世界格闘技の日」

これは、今から40年前の1976年6月26日に行われた、モハメド・アリ対アントニオ猪木の『格闘技世界一決定戦』──いわゆる「アリ猪木戦」を記念して認定された記念日です。
「へぇ~、久しぶりにアリの名前を聞いたなぁ… 」そう思った矢先の今月3日。
くしくも、当事者のひとりであるモハメド・アリが74歳の若さで亡くなりました。
なにやら、因縁めいたものを感じますね。
さすが20世紀を代表する英雄だけのことはありまして、アリの追悼式では、なんと10万人を超える人々が、沿道に集まったのだそうです。

そこで今日は、「世界格闘技の日」を前に、あの「アリ猪木戦」の、「その後」!
ほかならぬモハメド・アリ自身も、重要な役どころとして関わっていたという、知る人ぞ知る、「まぼろしのドリームマッチ」にスポットを当てましょう。

さて、例の「アリ猪木戦」に関しては、すでに語りつくされている感があります。
ボクシングのチャンピオン、モハメド・アリとプロレスのチャンピオン、アントニオ猪木が、世紀の大激突。

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結果からいうと両者痛み分け15ラウンド・フルタイムドローの引き分けに終わりました。
当時は「世紀の大凡戦」と報じられましたが、現在では「真剣勝負ならではの緊迫感に満ちていた」という見方が主流となっており、再評価の動きも出ています。
試合前に詳しいルール説明がほとんどなかったというのも、評価が分かれた一因でしょう。

さておき、きょうご紹介するのは、「その後」のお話。
実は、この一戦をきっかけとしまして、ある意味、「アリ猪木戦」を超えるスケールの、「とんでもない試合」が、「決定」していた。いまや、誰も語ることのない、「まぼろしのドリームマッチ」。

そのカードこそ、ズバリ…「ウガンダのアミン大統領 対 アントニオ猪木」という、世にも恐ろしい試合だったんです!

アナタは覚えてますか?
悪名高き、ウガンダのアミン大統領… 本名「インディ・アミン・ダダ」。
彼は70年代当時、「黒いヒトラー」あるいは「人食い大統領」とも呼ばれた、実に評判の悪い独裁者でした。
このアミン、腕っぷしのほうも、めっぽう強かった!
それもそのはず、大統領の座につく前は「東アフリカ・ボクシングヘビー級チャンピオン」。
ボクサー時代はウガンダが誇る国民的英雄でした。
ところが軍人になり1971年にクーデターを起こして大統領となったとたんにその本性を現します。
就任直後、前の大統領の関係者を、一斉に粛清した…
その数、「約3千人」とも言われています。

大統領時代は「触らぬ神に祟りなし」…。
国連も、アミンには手を焼きに焼きまして、国際社会に引っ張り出すことなんて、一切できませんでした。

ところが… そんなさなかの1979年(昭和54年)1月24日。
日本でとつぜん行われた記者会見が、世界中をアッと驚かせたんです!

いまでは廃刊となった『週刊ファイト』(新大阪新聞社)が衝撃の記者会見の模様を伝えた昭和54年2月6日号からその一部を紹介しましょう。
『全世界注目の三十億円の決闘、猪木対アミン大統領が、六月十日、ウガンダの首都カンバラで行なわれることに決定した。』
『東京・新宿の京王プラザの記者会見で発表されたもので、試合会場は、三万人を収容するウガンダ国立競技場。総費用は千五百万ドル、約三十億円にのぼる。』
『(会見に)詰めかけた報道陣は、在京のAP、UPなどの外国通信社、国内の全国一般紙、スポーツ紙に 加え各週刊誌も… という、海外のVIPなみの賑わいだった。』
『試合はアメリカNBCのネットワークで、北朝鮮とベトナム以外の全世界に放送される。』
『なお、調印式は、二月十六日、現地カンパラで、当事者のアミン大統領と猪木、プロデューサーの康芳夫氏、そしてレフェリーをつとめるモハメド・アリが出席して行われる。』
『注目されるのは、レフェリーのアリが、ヘッドギアと防弾チョッキ着用でリングにあがるという点。これは“万一”の事態に備えての措置とみられている。』
…というようなことで… なんとアミン大統領と猪木が、ウガンダで一騎打ち!

しかもレフェリーが、なんとなんと、モハメド・アリ!… という、破天荒きわまりない、いわば「キワモノ」「見世物」の極地のような、トンデモない試合が、正式決定したんです!
じゃあ、国連の要請を受けても国際社会の表舞台に出てこなかったアミン大統領が、なぜ、こんな奇妙奇天烈な試合を、本気でやろうとしたのか?
決め手になったのは、ほかならぬモハメド・アリの存在でした。
アミンは、アリのことを、大変に尊敬していたのだそうです。
で、アリがレフェリーをやると決まったとたん、即座に試合のオファーを受けたのだそうです。
つまり、アリなくして、この試合は絶対に、成立しなかった… というわけなんです。
… というわけで、調印式の日取りも決まった、レフェリーもアリに決定、試合の日時も決まった!
ギャラのほうは、レフェリーのアリが「百万ドル」、猪木が「五十万ドル」!
アミン大統領は公人ということでなんと「ノーギャラ」!
ただし、純利益の半分にあたる十五億円を、ウガンダの国家収入とする… ということまで決まっていた!
あとは試合を待つばかり… というところで… 残念(?)ながら、世紀の珍カードは、「まぼろし」となってしまいました。
というのも… この記者会見の直後、ウガンダが内戦状態となりまして、アミン大統領は失脚!
命からがらサウジアラビアへと亡命したのですが、その後は杳として行方知らずとなってしまったのです。
一説によると、その後2003年頃、サウジアラビアで病死した、と言われています。

もしもタイミングが許せば、世界格闘技史上例を見ない、珍妙な試合が行なわれたはずでした。
いったい猪木さんは、どんな戦法でアミン大統領に挑んだのでしょうか?そんなロマンもかきたてられます。

6月22日(水) 高嶋ひでたけのあさラジ!三菱電機プレゼンツ・ひでたけのやじうま好奇心」より

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