日本人プロゴルファー、初のメジャー制覇。そのときが、ついにやってくるかもしれません。
来月6日、ゴルフ4大メジャー大会のひとつ、マスターズ・トーナメントが、“ゴルフの聖地”オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブで開幕しますが…。
国民の期待を背負い、勇躍、満を持し、出場いたしますのが、ほかならぬ松山英樹選手です。
最新の「ゴルフ世界ランキング」(※3月1日現在)で、松山は、世界の4位につけています。
1 ダスティン.ジョンソン(アメリカ)
2 ジェイソン.デイ (オーストラリア)
3 ロリー.マキロイ (イギリス)
4 松山英樹(日本)
5 ヘンリック・ステンソン(スウェーデン)
この世界トップ5のうち、松山を除く上位4人は全員、すでにメジャータイトルを獲得しているんです!
夢のメジャー制覇に向けまして、まさに機は熟した… といったところでしょう。
そこで今日は、松山英樹のマスターズ制覇を祈念いたしまして、ズバリ!「かつて日本人ゴルファーがメジャー制覇にもっとも近づいた日」にスポットを当ててみましょう!
日本人ゴルファー、悲願のメジャー制覇。「いやぁ、惜しかったなぁ~~!」という例は、いくつかあります。
たとえば、1978年、「全英オープン」の中島常幸選手。
当時、日の出の勢いの「トミー・ナカジマ」(※アメリカツアーでの登録名)。
3日目の17番ホールのティーグラウンドまで、なんと、トップ・タイをキープ!
ところがこのホールで、単独トップとなるバーディを獲りに行った勝負のロングパットがカップを惜しくもかすめ、ボールはあえなくグリーンから転げ落ちまして、ガードバンカーへ…。
このバンカーから脱出に4打を要しまして、パー4で痛恨の「9」を叩き、万事休すとなりました。
有名な話ですが、セント・アンドリュース17番のこのバンカーは、以来、「トミーズ・バンカー」と呼ばれるようになったんです。
2002年の「全英オープン」では、丸山茂樹選手が、最終日、トップと3打差の3位タイでスタート。
一時はトップに立ったのですが、最終的には、惜しくも、5位に終わりました。
(※アーニー・エルスが4人のプレーオフを制して優勝)。
では、これらの例をも超えるような、「日本人選手が史上もっともメジャー制覇に近づいた日」とは、いったい、いつでしょうか?
ゴルフファンの間では今も語り草となっている「その日」とは、ズバリ!今から37年前の1980年、現地時間の6月12日、バルタスロール・ゴルフクラブで開幕した、「全米オープン」最終日… というのが、衆目の一致するところでありましょう。
今も「バルタスロールの死闘」と呼ばれている、青木功選手と、ジャック・ニクラウス選手の大死闘…。
なぜ、このときの「全米オープン」が、いまも語り草となっているのか?
これには、いくつかの理由があります。
ひとつめは… この全米オープンが、青木とニクラウスの“一騎打ち”となったこと。
たまたまの偶然、抽選の妙によりまして… この年の全米オープンは、日本の青木功と、アメリカのスーパースター、“帝王”ジャック・ニクラウスが、「予選初日から同じ組」で回ることになったんです。
ところが、期待の青木功とニクラウスが初日から一緒に廻るということで、色めき立ったのがNHK!で、急遽、国営放送でもって、生中継を行なうことになったんです。
つまり、この全米オープンはニッポン国民が注視する中で行われた激闘だった… というわけなんです。
おおいに盛り上がったふたつめの理由。それは…
「最終日、最終ホールまで、優勝の行方がもつれ込んだ」という点にあります。
全4日間、最終日の最終ホールまで、一騎打ちの死闘…。
こんな例は、長いゴルフ歴史の中でも、そうはありません。
いったい、どのような闘いだったのか?伝説の「バルタスロールの死闘」を、振り返ってみましょう。
当時38歳、脂が乗りきった感のある青木功は、予選初日、「68」の好スコアをマーク。
いっぽう、40歳の“帝王”ジャック・ニクラウスは、青木を上回る「63」を叩きだしまして、いきなり、堂々の首位に立ちます。
二日目も、ふたりは、最終組の同じ組でした。
ニクラウスはトップを譲らず、通算6アンダーのトップで二日目を終えます。
かたや、青木も食い下がりまして、通算4アンダー、2打差の2位にピタリと付けます。
迎えた三日目も、最終組。ここで両雄は、ともに通算6アンダー。
ついにふたりは、同じスコア、トップで肩を並べたんです。
4大メジャーの中でも、「世界で最も厳しいゴルフの試練」と呼ばれる全米オープン。
距離が、しこたま長いことでしられています。
この年の開催地、「バルタスロール・ゴルフクラブ」も、総計7932ヤードに及ぶモンスターコース。
アメリカのファンは、「アオキなんて聞いたことがない。」「東洋人は飛距離がない。どうせ途中で消えるだろう」と、タカをくくっていました。
ところが… 青木のゴルフは、それまでのゴルフの常識を覆すゴルフだったんです。
青木は、距離をかせぐため、二打目を、フェアウェイウッドで打ちます。
すると、たいてい、グリーンまわりのバンカーに掴まってしまう…。
観客は、「なんだあのショットは。あれじゃあバンカーに掴まっちゃうよ!」と笑います。
ところが… 実は、青木は、「わざと」バンカーに入れていたんです。
そして、バンカーから、ズバッと、ピンそばにピタリ!
これをワンパットで沈める… ということが、何度も何度も、続きました。
「信じられない。あの男は、わざと、バンカーに打ち込んでいるんだ…。」
バンカーから寄せまくり、腰を曲げた独特のパッティングスタイルで次々にカップへ沈めていく青木の雄姿。
次第に、観客も、現地のマスコミも、大騒ぎとなっていきます。
驚いたアメリカのある若い記者が、最終日直前の会見で、青木に向かって、こう訊きました。
「アナタはスゴイですね。あの有名なニクラウスと闘えて、嬉しいでしょう?」
すると青木功、ニコリともせず、こう答えたんです。
「アンタが知らんだけでね。オレだって有名なんだよ。」
(※世界と戦うには、こうじゃなきゃいけませんね。)
迎えた、最終日の朝。アメリカのニュースペーパーは、青木のことを、「オリエンタル・マジシャン」(※「東洋の魔術師」)との見出しで伝えました。
そして… ともに6アンダーで並んだまま、最後の死闘が始まったんです!
両雄、ともに譲らず、まるでマッチプレーのような一騎打ちが続きました。
まず、前半の9ホールが終わった時点で、ニクラウスが2打リード。
でも、いっかな、青木はあきらめません。
たとえバンカーに入れても「魔術師」の異名どおり、ワンパットのパーを拾いまくる!
負けじとニクラウスも、「ジャック・イズ・バック」(※「ジャックが帰ってきた!」)
という大声援を受けながら、必死のプレーが続きます。
そして… ニクラウスリード、2打差のまま迎えた、最終18番ホール。
青木が、みごと三打目を、あわやチップインかというような、ピンそば50センチのバーディチャンスにピタリと付けます。
湧き上がる大歓声と悲鳴… まだまだ勝負は分からない!
かたや、ニクラウスも、なんとかかんとか、3オンに成功。
ただし、長いパットが残りましたので、この時点でも、勝負はまだ分からない!
青木はいわゆる「OK」の距離。
ニクラウスがもしも3パットをすれば、プレーオフになるからです。
最初に打ったのは、ニクラウス。長い、スライスラインのパットです。
これが… 伸びに伸びまして、みごと、カップに沈んだ!
“帝王”ジャック・ニクラウス、40歳にして、マスターズ制覇!
ニクラウスが小さなガッツポーズを見せた、その瞬間… 観客は、もう興奮の坩堝。
なんとその一部が、グリーンにまで、登ってきてしまった!
いかに、この死闘が刺激的だったのかがよく分かる、きわめつけのラストシーンです。
ちなみに、このときのニクラウスの仕草も語り草です。
ニクラウスは、紳士的に、「みんな。静かにするように」とうながした…。
そう。4日間に渡って闘いぬいたライバル、青木のパッティングが、まだ残っていたからです。
青木功は、興奮さめやらぬグリーン上で、2位となる、最後のパッティングを、しっかりと決めました。
すると、青木にも、ニクラウスに負けないほどの大歓声が降り注ぎました。
ここに、世に言う「バルタスロールの死闘」が、終わりを告げたんです。
あの伝説の全米オープンのあと、ニクラウスは、こんな言葉を残しています。
「100ヤード以内のアオキは、文句なしに世界一だ。」
この言葉を裏付けるように 、アメリカンツアーのバンカーショット部門では、「ISAO AOKI」が、1980年、1981年と、二年連続で「世界1位」の座に就きました。
さて… 「バルタスロールの死闘」で、青木さんが見せたバンカーショットを、のちのちビデオで見て、「ISAO AOKI」の大ファンになった、ひとりの少年がいました。
それが、かのタイガー・ウッズだったんです。
青木功の衣鉢を継ぐテクニシャン、松山英樹。
「もう、夢は、メジャータイトルの獲得だけです。」と断言していますが… 今年のメジャー最初のトーナメント、「マスターズ・トーナメント」開幕は、もう、すぐそこです!
3月1日(水) 高嶋ひでたけのあさラジ!「三菱電機プレゼンツ・ひでたけのやじうま好奇心」より