従業員23人の町工場が、なぜ「はやぶさ2」のネジを製造したのか
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それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
冬の夜空にきらめく星座……あのなかを、次のミッションに向けて飛び続けているのが、小惑星探査機「はやぶさ2」です。
機体のなかには、大小さまざまなネジが数百本も使われています。そのネジを製造するのが、埼玉県羽生市にある、株式会社『キットセイコー』という会社です。
住宅地のなかにある従業員23人の町工場が、なぜ「はやぶさ」のネジをつくっているのか……こんな物語がありました。
創業者の田邉弘さんは、群馬県の中島飛行機で働いたのち、昭和15年に「田辺製作所」を起業。多いときは200人の従業員を雇い、戦闘機などの部品をつくっていました。
昭和25年に社名を変更し、「東武螺子製作所」を創立。昭和40年ごろまで、ソニー、日立、松下など、家電製品のネジをつくりますが、その後は「量産多売」から「少量多品目」へ舵を切り替えて行きます。
通信機の特殊なネジを手掛けたことで、日本電気(にっぽんでんき・NEC)から、日本初の人工衛星「おおすみ」に使われるネジの製造依頼が来ます。
いまから50年前の話です。当時の職人は「ネジはネジだろう」と高をくくりますが、いままでの加工しやすい真鍮(しんちゅう)のネジと違って、人工衛星に使われるネジは、強度と軽さと耐久性に優れたチタン合金。
初めて扱う合金はとにかく硬くて、削っていたドリルが火を吹くほど。失敗を繰り返し、試行錯誤の末に、日本初の人工衛星に使用されるネジをつくり上げました。
現在、3代目の社長・田邉弘栄さんは46歳。人工衛星「おおすみ」の打ち上げは生まれる前の話ですが、宇宙事業を支える家業を誇らしく思い、小学校の卒業文集には「将来の夢、ネジ屋の社長になる!」と書きました。
「大学を出たら、一旦は家電メーカーに就職し、いつかは家業を継ごうと軽い気持ちでいました。ですが大学生のとき、旅行が好きで、もっと世界を見たくなって、その資金稼ぎにうちの工場でバイトしたんです。そのとき、『このままだと、うちの会社はなくなってしまう!』と愕然としましたね。というのも、定年前の職人さんばかりで、若い社員が育っていないんです」
大学を卒業すると2年ほど機械メーカーに出向し、25歳のときに戻って来た田邉さんは、心に決めたことがありました。
「1年間は、黙って働こう」
この間に、気になることがありました。1つは、納期が遅れているのに従業員が平気でいること。それから、工場の床が油で汚れているのに、そのままにしていること。
「きれいな環境こそ、いい仕事はできる」……そう思っていた田邉さんは、仕事が終わると1人残って、床の雑巾掛けをしました。
「床掃除は1時間ほど掛かりましたね。そのうち、パートさんが1人、2人と手伝ってくれて、だんだん職人さんも、こぼれた油を自分で拭くようになったんです。あのときは胸がグッと熱くなりましたね」
そして1年が経ち、田邉さんは熟練工の職人さんに、「どうか納期を守って欲しい」と頼みますが、「納期を気にしていたら、いいものはつくれない」と言い返されます。一時、職場がギクシャクして、重苦しい空気が流れました。
田邉さんのモットーは「やるなら楽しく!」。そこで気持ちを切り替え、技術にこだわる職人さんには、「納期を考えなくてもいいので、若手が育つように技術の指導をお願いします」と頭を下げ、若い社員には納期を考えて仕事を進めて欲しいと頼み込み、工場内でのコミュニケーションを図って行きました。
2011年、37歳で3代目社長に就いた田邉さん。現在、従業員は23名。そのうち技術者は10名で、平均年齢30歳……。
「会社が若返っただけではなく、いまでも75歳と72歳の職人さんに頑張ってもらっているんです。ネジづくりのことなら何でも相談できるので、社内では敬意を込めて、〝マイスター〟と呼んでいるんですよ」
子供のころ、ネジ屋の社長になったら〝伸び縮みするネジ〟をつくりたいと夢を描いていた田邉さん。
「伸び縮みするネジはまだつくれませんが、柔軟な発想を忘れず、『はやぶさ』のように新たな分野にも挑戦して行こうと思っています」
■株式会社「キットセイコー」
※「キットセイコー」では、工場見学も受け付け中。
電話:048−561−6111
所在地:埼玉県羽生市大字上手子林280
最寄り駅:東武伊勢崎線南羽生駅下車、徒歩8分
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