東日本大震災から10年~被災地・楢葉町のいま 【#あれから私は】
公開: 更新:
ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」(3月8日放送)にジャーナリストで東海大学教授の末延吉正が出演。東日本大震災から10年、被災地である楢葉町の現在について、現地で住民たちをつなげる活動をする高原カネ子氏のインタビューを中心に解説した。
東日本大震災から10年~被災地・楢葉町の町民の想い
福島第1原子力発電所から南におよそ20キロ、警戒区域指定で、かつてすべての町民が町を出ざるを得なかった楢葉町はどのように10年目を迎えようとしているのか。町民の想いをリポートする。
飯田)事故のあった福島第1原発、そこを中心に当初30キロ圏内が警戒区域となり、そこに楢葉町もすっぽり入るということで、全町避難になりました。事故のあった福島第1原発は、双葉町と大熊町にまたがって存在いたします。その南に富岡町がありまして、さらにその南に楢葉町があります。ここはサッカーのナショナルトレーニングセンター、「Jヴィレッジ」がある街でもあります。発災直後から町民は避難を余儀なくされまして、およそ4年半後の2015年9月に、浜通りですべての住民が避難した町としては初めて、全域で避難指示が解除となりました。
この10年という日々は何だったのか
飯田)地震以前は約8000人の人口を擁していたのですが、現在はその内の6割ほどが町に戻って来ています。浜通りのなかでも、わかりやすく復興を感じられるところで、交流施設や買い物をする場所などもかなり整備され、インフラが戻っている感じがありますが、町の人はどう感じているのか取材をしてまいりました。4年前に楢葉を取材したとき、いち早く町に戻って来ていて、そして住民たちのつながりの活動や語り部もされていた高原カネ子さんに話を伺いました。当時は「震災の記憶の風化」をテーマにいろいろなところを取材していたのですけれども、「風化、風化と言いますけれども、私たちはいつまで被災者でないといけないのですか」とおっしゃられたことに、本当に衝撃を受けました。「被災者というステレオタイプでものを見ていたのではないか」ということを感じて、それを私は自分の本のなかにも書きましたが、4年後の今回、再び高原さんにお電話で話を伺いました。語り部以外にも、和太鼓の指導や、着物の素材をリメイクした和布細工や藍染めの作品づくりなどを行っている高原さん。「この10年間がどういうものであったのか」という想いについて、また、日常が戻って来た心のうち、さらに今後というところを伺いました。
10年は大きな節目~ふるさとを想う悲しさはいまの方が大きい
飯田)10年が経つというところですけれども、ここに関して高原さんは何か想いというものはありますか。
高原)楢葉町だけを見れば、「よくここまで来たな」という感じがします。
飯田)「被災者像」のようなものが止まっているという指摘がありますけれども。
高原)生活自体は、避難者ではないような生活がきちんとできていると思います。ただ生活をする場所が違うということはありますけれどね。そうでなかったら、10年生きて来られなかったはずですから。
飯田)そうすると、心のなかのあり方のようなものの変遷を知って欲しいということはありますか?
高原)そこはなかなか難しいですよね。部分的なものの側面ができても、日常に戻ったからこそ、昔を思い出すということだってあるわけですから。急性期は思い出す暇もなかったですけれどね。追い立てられたときのふるさとを想う悲しさと、いま日常が戻って来てふるさとを想う悲しさのどちらが大きいかと言えば、いまの方が大きいと思いますね。
飯田)10年というのは、高原さんご自身にとっての節目にはなりますか?
高原)もちろん、大きな節目です。
これまで走って来たことの達成感はある~今後はバトンを若い人に渡したい
飯田)今後というのはどうされて行きますか?
高原)いままでずいぶん走って来たつもりなのですね。でもすごい達成感というか、「10年間、自分は幸せだったな、楽しかったな」と思います。私ではない人がいろいろなことをやってくださるのを、後ろから見て喜んで行けたらなと思います。
飯田)町の様子も含めて、そろそろ後ろにバトンを渡そうという感じですか?
高原)そうです。
飯田)ここ1~3年はその後継を育てて行くという過程にあったのですか?
高原)そうです。意図的にそうやってまいりました。
飯田)楢葉には次のバトンをつないでくれる人がいっぱいいたということですか?
高原)いたということです。
「忘れなくてはいけないこと」と「忘れてはいけないこと」
飯田)今後、この町はどうなって行ったらいいですか?
高原)忘れてはならないというのは、そういうことがあったということだろうけれども、忘れなくてはいけないこともありますよね。
飯田)忘れなくてはいけないこともある。
高原)つらかったとか、人のせいにばかりしていたら、自分が楽しく幸せにならないので、忘れなければいけないことがあるということと、防災などについては、忘れてはいけないことですよね。今回の再びの地震なども、私は持ち出すものを玄関に揃えてしまいましたもの。そういうものをちゃんと準備するというのは、忘れてはいけないことです。
飯田)何か言われたら、すぐ外に出られるようにするという。
ときには断る勇気も必要
高原)この10年で学んだのは、「最終的には自分の身は自分で守る」ということですものね。それと「支援され過ぎると、自立できなくなる」ということも学びました。ただ、日本にはいい文化があって、「一生懸命支援したい、その支援をお断りすることもできない」という文化はすごく素敵だと思います。
飯田)せっかく用意してくださったという。
高原)だけど頼り過ぎたらダメで、ときには断る勇気も必要だということも学びました。
悪いことばかりではなかったこの10年間
飯田)他の豪雨の被災地などに、高原さんがいろいろなものを送ったり、支援されることもありますけれども、その辺の間合いみたいなことは気を遣いましたか?
高原)はい。ただ、送ってしまったら、当然のごとく「ありがとう」のお手紙が来ますよね。そのお手紙をみんなで読み合ったときに、私たちはありがとうばかり言って来たけれど、その「ありがとうの言葉は、こんなに私たちを素敵に元気にするんだ」ということに気づく瞬間があったのです。人のための時間をつくるということは、元気になるのですね。そういうことにも気づいて、みんなこの10年間、悪いことばかりではなくて、新しいコミュニティも生まれたし、成長もしたし、強くもなったと思います。
気持ちの部分の復興には10年が必要だった
飯田)気持ちが変わったということが、「もう被災者ではない」という。
高原)それこそが復興なのかなと。
飯田)気持ちの部分の復興は、そういった紆余曲折を経ながら、やはり10年という時間が必要だったということですかね。
高原)そうかも知れませんね。
今後はゆっくりと
飯田)今後はしばらくゆっくりされるのですね。
高原)そのつもりです。
飯田)でも頼って来る若い子たちがいるのではないですか?
高原)そうでなくして来たつもりなので。
飯田)でもまったく退くというわけではないですものね。
高原)そうですね。和布細工教室「ほのぼの」などは、自分自身も楽しめることだし、太鼓のグループも指導する立場はやめますが、自分自身の筋肉を維持するためには参加して行くつもりです。
飯田)一緒になって、ある意味、一兵卒に戻るようなことですか?
高原)そうです。
記録は永遠に残さなければならない
飯田)楢葉町の高原カネ子さんのインタビューをお聴きいただきました。ある意味で一兵卒に戻る、ようやくここで日常が戻るというところですかね。末延さんはどうご覧になりましたか?
末延)今回の飯田さんのインタビューも間違いなく記録として残るのです。東日本大震災の復興構想会議が「復興構想7原則」を言ったときに、「記録を永遠に残せ」ということを最初に言っています。記憶というのは変わって行くので、ジャーナリズムやメディアの仕事は「記録として積み上げて行くこと」です。例えば国立国会図書館にもアーカイブがあります。そういうものをいろいろな人が見ることによって、時空を超えて参考にして行くということを考えなければいけないと思いながら、伺っていました。
番組情報
忙しい現代人の朝に最適な情報をお送りするニュース情報番組。多彩なコメンテーターと朝から熱いディスカッション!ニュースに対するあなたのご意見(リスナーズオピニオン)をお待ちしています。