政治改革の旗手死す 28年前のあのころ、そしていま……

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「報道部畑中デスクの独り言」(第307回)

ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は、故・武村正義氏について---

インタビューに答える武村正義・元蔵相=2009年7月28日午後、大阪市北区 写真提供:産経新聞社

画像を見る(全4枚) インタビューに答える武村正義・元蔵相=2009年7月28日午後、大阪市北区 写真提供:産経新聞社

今年(2022年)は安倍晋三元総理大臣の銃撃事件という大変ショッキングなニュースがありましたが、この他にも有力な政治家がこの世を去りました。1月には海部俊樹元総理大臣、2月には石原慎太郎元東京都知事、7月には藤井裕久元財務大臣……そして、9月には武村正義さんも鬼籍に入りました。

武村正義さんは、滋賀県知事を経て国政の世界に身を投じました。1986年に衆議院議員に、当初は自民党に所属しますが、1993年には自民党を離党し、「新党さきがけ」を立ち上げます。当時は「政治改革の旗手」の1人とされていました。

「私たちは苦しみながらお世話になった党を離れた。新天地へ出て、思い切って日本の政治のなかで、私たちの志を堅持しながら新しい出発をできることを大変幸せに思っている」

武村さんは結党の記者会見でこのように述べました。

当時、武村さんはその風貌から「ムーミンパパ」の愛称で親しまれます。武村さんの秘書を務め、自らも衆議院議員を2期経験した宇佐美登さんは、「こんなに包容力のある人っているんだな」と驚いたと言います。

秘書の初日、周りの秘書が白いシャツのところ、宇佐美さんだけカラフルなシャツで事務所に“出勤”。ドキドキしていたところ、武村さんは「元気な色やなあ。事務所が元気になるわあ」と迎え入れ、宇佐美さんはホッと胸をなでおろします。

まだ、クールビズという言葉がなかった当時、政界での服装は結構厳格だったようで、知り合いの記者から、ある総理経験者の元に色つきのシャツで訪れたところ、「君は遊びに来ているのかね?」と言われたという話を聞いたことがあります。

ちなみにこの年、1993年7月の衆議院選挙、選挙特番で私は新党さきがけの担当となります。取材したときには、メンバーがポスターの前で談笑しながら記念撮影で盛り上がるなど、新党さきがけは気さくな「オッサン」たちの集まりに見えました。宇佐美さんも「サークルみたいな雰囲気。熱気、ワイワイ感があった」と結党記者会見を振り返ります。ちなみに新党のメンバーには、後の総理大臣となる鳩山由紀夫氏も含まれていました。

この年7月の衆議院選挙では、1955年の保守合同以来続いていた自民党が下野し、非自民・非共産の連立政権=細川護熙政権が発足しました。

「1つの時代、1つの役割、1つの運命……歴史そのものを改めて強く感じている」

首班指名を受けて細川氏は心境を語ります。武村さんは官房長官に就きました。閣僚名簿発表のとき、「不肖・武村正義」と語ったことを覚えています。

インタビューに応じた宇佐美登さん

インタビューに応じた宇佐美登さん

ちなみに、この選挙で初当選した議員にはそうそうたる顔ぶれです。浜田靖一防衛大臣、高市早苗経済安全保障担当大臣、野田聖子前少子化担当大臣、田中眞紀子元外務大臣、そして、岸田文雄、安倍晋三、野田佳彦……新旧の総理大臣が名を連ねています。前出の宇佐美さんもその1人、当時最年少となる26歳での当選でした。

この時期、焦点となったのは政治改革。なかでも選挙制度改革は、それまでの中選挙区制がリクルート事件以降、派閥力学、金権政治の温床になっているとして、変えるべきかどうか……メディアも巻き込む“一大議論”となりました。

「選挙制度は自分たちの政治生命もかかるし、日本の未来を選んでいくという強い使命感で与野党みんなが盛り上がっていた。夜11時~12時ぐらいの本会議はざらにあった。すごく大変だった。かつ充実していた」

選挙制度を変えることは政治家自身の身分、すなわち“政治生命”にもかかわりますので、賛否は大きく分かれます。選挙制度改革を含めた政治改革関連法案は衆議院通過後、参議院で否決されるという異例の事態となりました。

その後、両院協議会、衆議院議長提案などを経て、1994年1月29日、施行期日を削除した上で成立します。

「大きなヤマを越えた。ひとまずほっとした」(細川総理)

11月には選挙区の区割りを定めた改正公職選挙法などが成立して、選挙制度改革に関する一連の動きは決着。小選挙区比例代表並立制という新たな選挙制度がここに誕生しました。

選挙区で1人しか当選しない小選挙区、これに小選挙区との重複立候補も可能な比例代表制が加わります。比例代表は党名を選ぶ拘束名簿式ですが、重複立候補の場合、比例の順位を政党内で各候補同じ順位にし、惜敗率の高さをもって当落を決める方法も導入されました。惜敗率とは各選挙区でトップ当選を果たした候補の得票数に対する割合です。つまりトップ候補に対して、どれだけ“善戦”したかを示す尺度というわけです。

小選挙区で落選しても比例代表で復活当選する議員も出て、当時は「ゾンビ議員」と呼ばれました。かなり複雑な制度ですが、定員の見直しなど細かな変更を経て、現在に至っています。

当時は政権交代可能な制度と期待されました。2009年から民主党を中心とする政権が誕生し、実際、それは現実になったわけですが……一方でやり残したこともあったようです。

「小選挙区にするなら、二世、三世にも優秀な人がいるにしても、必ず予備選挙があるような仕組みをつくるべきだったが、受け入れられなかった。政治資金の制度にしても、団体・企業の献金が原則やめるとなったなかで、政党助成金が決められたが、政党には企業・団体の献金がOKとなり、残ってしまった。いまは政党支部が山ほどできている。個人(献金)と何が違うんだ?……まだまだ道半ばの政治改革だったと約30年経ったいまも思う」

宇佐美さんはこのように振り返ります。

3党首会談 握手をかわした(左から)武村正義・さきがけ代表、村山富市首相、河野洋平自民党総裁。=1994年6月29日 写真提供:産経新聞社

3党首会談 握手をかわした(左から)武村正義・さきがけ代表、村山富市首相、河野洋平自民党総裁。=1994年6月29日 写真提供:産経新聞社

この1994年の政界は激動を極めました。選挙制度改革をめぐる採決では党議に反する議員が続出、特に当時の社会党は分裂の危機に陥りました。さらに、その直後、細川政権は「国民福祉税構想」を打ち出してとん挫。これを機に急速に内閣への支持が低下し、8ヵ月あまりで政権は退陣に追い込まれました。

政権のバトンは羽田孜政権に引き継がれますが、社会党の連立離脱により、少数与党での発足を余儀なくされ、わずか2ヵ月あまりの短命内閣となります。そして、6月にこれはいまも「ウルトラC」と呼ばれます。長年の政敵、自民党と社会党が手を組み、これに新党さきがけにより、社会党の村山富市委員長を首相とする「自社さ連立政権」がスタートするわけです。

武村さんは与党の一角にとどまるというしたたかさを見せますが、その後、さきがけのメンバーらが民主党を旗揚げし、武村さんは合流を拒否されます。「排除の論理」と呼ばれました。新党さきがけは勢力が縮小し、2002年に解党しました。

あのときの選挙制度改革がもたらしたものは何だったのでしょうか? 宇佐美さんは政党の力が議員より強くなったと指摘します。

「解散してから政党が候補者を見つけるとか、それもアリかも知れないが、どうかなという人も多々見受けられる。もっと大胆な発言や行動をしてもいいと思うが、党の代表や幹事長がヤダと言ったら、その党で出られないという排他的なものが成り立ってしまった。各党で“党内民主主義”が成り立っていない。結果として国民や日本の未来より、党のトップや権限のある人ばかりを見てしまっている」

さらに、宇佐美さんは「重要な法案などは国民投票法で、さらには首相公選制、政治のトップを自分たちで決める……政治制度、選挙制度を見直すタイミングではあると思う」と語りました。

武村さんの訃報は、メディアを含めて不思議な興奮状態にあったあの時代を思い出させました。選挙制度改革からあと2年で30年を迎えます。

ちなみに武村さんは滋賀県知事時代、琵琶湖の水質浄化に力を入れていました。街頭演説でも当時、政治改革一色のなか、「地球しか生命が住んでいる星はない。この地球を守っていく」と環境問題にも言及していたそうです。

カーボンニュートラル、SDGsと言われるのはその約30年後のこと。そういう意味でも時代の“さきがけ”でした。合掌。(了)

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