それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
齋藤悌子さん(88)は昭和10年、沖縄・宮古島に生まれました。ご本人に伺うと、特に歌が好きな少女ではなかったそうです。
戦時中は台湾に疎開。戦後は沖縄本島で暮らし、那覇高校に入学します。音楽の授業で歌に触れ、歌うことを楽しく感じていたとき、音楽の先生が「歌を生業にしてみたら?」と背中を押してくれました。
当時の沖縄は米軍統治下にあり、キャンプ内の米兵を相手に歌う仕事があったそうです。内地やフィリピンから、いくつもバンドが沖縄にやって来ました。悌子さんはそのうちの1つであるバンドのオーディションを受けます。
ジャズは1曲も知らないので『アヴェ・マリア』を歌ったところ、見事合格。ここから齋藤悌子さんのジャズ人生がスタートします。
英語も話せず、ジャズも知らない悌子さんでしたが、キャンプ内に一歩入ると、そこは映画で見た華やかなアメリカ文化が溢れていました。「ステーキやハンバーグが美味しかった! ケチャップの味も、そのとき初めて知りました」と悌子さんは懐かしそうに話します。
『アヴェ・マリア』しか歌えなかったものの、英語の歌詞や発音はアメリカ人から直接指導され、ジャズや流行歌を夢中になって覚えました。ワンステージ40分、アメリカ兵のリクエストカードに応えて歌っていきます。
大晦日の夜のこと。午前0時に向けてカウントダウンが始まりました。すると、バンドマスターが「悌ちゃん、逃げて逃げて!」と叫びます。悌子さんは何もわからず、ステージから楽屋へ……。
実は、午前0時になると一瞬ステージが暗くなり、誰とでもキスができるのだそうです。キュートな悌子さんはアメリカ兵の人気の的でした。当時、悌子さんと交際していたバンドマスターの齋藤勝さんが「逃げろ!」と叫んだ理由をあとで知り、胸を撫で下ろしました。
悌子さんは25歳で勝さんと結婚し、29歳までキャンプで歌います。その後、勝さんの故郷・千葉県へ移り住み、2人の子どもにも恵まれました。そのころはホテルやナイトクラブでジャズを歌っていたそうです。
悌子さんが54歳のとき、長女・敦子さんが暮らす石垣島に夫婦で移住。長女の営むカフェレストランで歌っていましたが、悲しい別れがやってきます。石垣島に住んでから5年後、最愛の夫・勝さんが肝臓がんで亡くなったのです。
「父が亡くなってから、母は歌を歌わなくなり、聴くこともなくなりました。歌が流れてくると泣き出して、何もできなくなってしまったんです」と長女の敦子さんは振り返ります。そんな日々が12年も続きました。
ある日、悌子さんが近所の喫茶店に寄ると、ジャズのスタンダードナンバーが流れてきました。本当なら耳を塞ぐ悌子さんでしたが、なぜか心が弾みます。12年の歳月が悌子さんの心を癒し、「もう一度ジャズを歌いたい」という気持ちに変わったのです。
長女の敦子さんは「ママ、もう一度歌ってみたら?」と応援します。しかし、試しに歌ってみたところ、声が掠れて歌えませんでした。
「ああ、ママはもう声が出ないんだ。衰えてしまったんだわ……」
それでも悌子さんは諦めませんでした。「声は筋肉と一緒で鍛えれば変わるはず」と考え、毎朝5時に起きて近くの公園に出かけます。体操したあと、「あー、あー!」と発声練習を始めました。
まだ暗いうちですから、近くのアパートの電気がポツンポツンと点いていきます。「近所迷惑になる」と思い、今度は図書館の壁に向かって発声練習を続けました。
そのうち音域が広がり、声に安定感が戻りました。そして86歳のとき、ファーストアルバムの話が持ち上がります。米軍キャンプ時代、夫・勝さんが悌子さんのためにつくった手書きの譜面が残っていたそうです。
レパートリーは323曲。その譜面を元に、世界的ジャズピアニストであるデビッド・マシューズさんの演奏で、「一発録り」のレコーディングに臨みました。
このアルバムが話題を呼び、今年(2023年)2月に東京・有楽町の新劇場「I'M A SHOW」で初の東京公演を開催。テレビのドキュメンタリー番組でも注目を浴びました。この12月と、来年(2024年)4月には、再び東京のステージに立つ悌子さん。元気な理由を伺うと、好きな言葉を教えてくれました。
「年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る」
100歳まで歌いたい……それが、齋藤悌子さんが目指す理想のようです。
■齋藤悌子 公式ホームページ
https://saitoteiko.srptokyo.com/
番組情報
眠い朝、辛い朝、元気な朝、、、、それぞれの気持ちをもって朝を迎える皆さん一人一人に その日一日を10%前向きになってもらえるように心がけているトークラジオ