ホンダ・日産経営統合協議打ち切り 熱いファンの声を聞け!
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ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム「報道部畑中デスクの独り言」(第406回)
ホンダと日産自動車の経営統合協議打ち切り以降、今後の焦点は日産の事業再生と新たなパートナー探しに移りました。パートナー探しについては、台湾の鴻海グループのほか、アップルやエヌビディアなど異業種との提携も取り沙汰されています。これらは確証があるわけではありませんが、いずれにしても何が起こってもおかしくない状況です。

初代ブルーバード(「ノスタルジック2デイズ」の会場で)
一方、日産には昔からの根強いファンがいます。
先月下旬に開かれた「ノスタルジック2デイズ」に足を運びました。主に20世紀のモータリゼーションを彩った車両が一堂に会する、「旧車のモーターショー」ともいえるイベントです。その旧車たちは愛好家らによって丁寧に整備され、輝きを放っていました。中でもスカイライン、ブルーバード、フェアレディZ、サニーなど、日産車はまだまだ元気です。そのイベントの一角に「全日本ダットサン会」のブースがありました。
「ダットサン」の歴史をおさらいすると、1911年に技術者、橋本増治郎氏(「増次郎」の表記もあり)が創業した快進社自動車工場にさかのぼります。そこで生まれた純国産の乗用車が「DAT(ダット)号」。橋本氏の協力者である田健次郎(D)、青山禄郎(A)、竹内明太郎(T)各氏の頭文字から取ったとされ、「脱兎のごとく」という意味もありました。
快進社はその後、ダット自動車商会となり、実用自動車製造と合併してダット自動車製造へと変遷を遂げます。1930年には小型乗用車を試作し、「DATの息子」を意味する「DATSON(ダットソン)」と名づけられました。ただし、SONは「損」につながるということで、1932年に太陽を意味するSUNに改められます。こうしてダットサンが誕生しました。

初代ブルーバードの室内 コラムシフト、ホーンリングが懐かしい
ダット自動車製造は石川島自動車製作所と合併して「自動車工業」となる一方で、日産コンツェルンの総帥、鮎川義介氏は自動車工業からダットサンの製造権を譲り受け、1933年に「自動車製造」を設立します。自動車製造は翌年には社名を日産自動車と改めます。ちなみに自動車工業は現在のいすゞ自動車です。
つまり、ダットサンは日産の創立以前から存在していたブランドというわけです。ブルーバード、サニー、フェアレディZ……、これらはかつてダットサンブランドの車種(ペットネーム)でした。輸出先のアメリカでも人気を博しますが、1981年、トラックなどの車名を除いてブランドはいったん途絶えます。ゴーン体制では新興国向けのブランドとして復活したものの、再び消滅し、現在に至っています。
日産の源流ともいえる歴史あるブランド、ダットサン。そのダットサン、日産車をこよなく愛する人たち、オーナーズクラブがいまも国内外に根強く存在します。その一つが「全日本ダットサン会」。会長の佐々木徳治郎さんは、ホンダと日産の経営統合協議打ち切りを振り返り、今後に期待を示しました。

全日本ダットサン会のメンバー
「ちょっと失敗かなと思ったが、よく考えるとかえっていいかなと。いま日産の役員が思い切り目が覚めたと思う、ホンダに蹴飛ばされたことによって。ま、日産が蹴飛ばしたのだが。それによって一気に日産が目覚めて、すごいスピードで加速度つけて一気にいいクルマは出てくる。能力はある会社だ」
全日本ダットサン会のブースに展示されていたのは初代ブルーバード(後期の312型)。かつて自動車修理工場を営んでいたという佐々木さんは、ダットサン、日産車を乗り継いで御年84歳、まだまだ矍鑠とされています。その魅力についても熱く語りました。
「日産のデザインは飽きがこない。一回惚れると、離れられない。そういう魅力がある。どちらかというと直線型のデザインが全部当たっている。ブルーバード510型(国内で1967年~1972年に販売された三代目)とかがそうだ。日本人はまっすぐの精神、日本人の気持ちに合ったデザインは必ず当たる。日産はそれをつくってきた。しかし、いま、それを他のメーカーにとられている」
「デザイナーで自由勝手につくりなさいと言えばいい。上から目線で言わないで、担当者目線でつくりなさいと。トップはそう指示するだけでいい。ああいうふうにつくれ、こういうふうにつくれとか(いう必要はない)、(トップは)もともと能力ないんだから。(デザイナーは)思う存分やりたい放題やりなさい。そうすればいいものができる」
一方、経営不振に陥った日産の状況についてはこう指摘しました。

全日本ダットサン会 佐々木徳治郎会長
「やはりトップが技術屋でないということ。ものを考えてつくる能力の人がトップになっていない。どちらかというと経理屋さんだ。いくらで売れるか、いくらで利益が出るか、帳簿上で儲かることを計算して作っているから失敗する。10台クルマをつくるなら、3台は遊びのクルマをつくらなければいけない。その3台が7台分を引っ張ることがある。パオとかエスカルゴとか、Be-1とか。ああいうことをやらないと」
パオ、エスカルゴ、Be-1……、日産は1980年代後半から90年代前半にかけて、当時の大衆車マーチや商用車パルサーバンをベースに特徴的なスタイルの車種を開発し、これらは「パイクカー」と呼ばれました。バブルの時代でもあり、開発資金の余裕があったという背景もありますが、これらの車種はいずれも人気を博しました。この時代の日産社長は久米豊氏で技術畑の出身でした。
現在の自動車メーカーのトップで技術畑出身はトヨタ自動車の佐藤恒治社長、ホンダの三部敏宏社長、SUBARUの大崎篤社長、日本自動車工業会会長を務めるいすゞ自動車の片山正則社長らが挙げられます。自動車メーカーの経営は技術だけでない複雑な要素があり、トップを補佐する“名参謀”がいることが成功の条件であることは世の常ではあります。ただ、「100年に一度の大変革」の中、日産のトップとして激動の時代を乗り切るには、技術畑の人材は確かに一つの選択肢と言えるかもしれません。

ダットサンは新興国向けブランドとして復活した時期もあった(2019年撮影)
そして、今後の日産について、佐々木さんは、経営陣を刷新した上で、ホンダとやり直すべきと主張します。
「ほかに組むところはないと思う。ホンダしかない。いまの役員が総とっかえで、もう一度仕切り直ししませんかって言ったら、やりましょうとホンダは来ると思う。何せホンダだって日産のいいところをいっぱい知っていて、技術を盗もうとしているわけだから」
佐々木さんからは熱い思いが伝わります。多くの自動車ユーザーの中では少数派かもしれませんが、こうした方々が日産という自動車メーカーを支えていることもまた事実です。そして、日産再生のヒントがあるようにも思います。
「早く日産いいクルマ出してくれないかとずっと願っている。毎日夜寝るたびに待っている。とにかく、日産がつぶれたら、私は生きてる価値がない。日産は残ってもらわないと。ピンチをチャンスに変える。ピンチがピンチで終わったら情けない。ピンチをチャンスに変える!」(佐々木さん)
経営陣はこれをどう聞くでしょうか? 根強いファン、ユーザー、そして現場に寄り添うことが日産再生の第一歩……、そう思えてなりません。
(了)