僭越ながら……、久米宏さんから学んだこと

By -  公開:  更新:

ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム「報道部畑中デスクの独り言」(第462回)

■遅ればせながら……、伝説の番組最終回から22年の日に

22年前のきょう、2004年3月26日に往年の報道番組が最終回を迎えました。「ニュースステーション」、言うまでもなく今年初めに生涯を閉じた久米宏さんがキャスターを務めていた番組です。1月の久米さんの訃報に接し、様々な思いがありましたが、小欄では時機を逸していました。このタイミングで改めて久米さんについて触れたいと思います。

僭越ながら……、久米宏さんから学んだこと

久米さんの訃報が届いた翌日、スポーツ紙は一面トップで扱われた

訃報が伝えられた日、テレビではニュースステーション最終回のシーンが取り上げられていました。デスクの背後にあった冷蔵庫からビールを取り出し、グラスに注ぎ1人一気飲みして「さよなら!」……、この別れのシーンには「引き際の美学」を感じましたが、私がこの回で覚えているのは、以前小欄でも紹介した以下のフレーズです。

「私は民間放送を愛していると言ってもいい。日本の民間放送は原則として戦後にすべて生まれた。日本の民放は戦争を知らない。国民を戦争に向かってミスリードしたという過去が民間放送にはない。これからもそういうことがないことを祈っている」

戦争を起こさぬために…それぞれの立ち位置がありますが、久米さんの発言は民間放送に身を置く者として、改めて肝に銘じたいと思います。訃報の後、衆議院選挙、アメリカ・イスラエルによるイラン攻撃、そして日米首脳会談…国内外で様々な出来事がありました。久米さんならどう感じていたでしょうか。

■「ベストテン」の久米さん……、心に残る3つのコメント

久米さんについては、様々な人がコメントを寄せていました。ニュースステーションで新たなキャスター像を示したという視点が目立ちましたが、私は典型的な「ザ・ベストテン」(以下 ベストテン)世代で、放送のあった毎週木曜夜9時はテレビの前にかじりついていました。私にとってはやはり「ベストテンの久米さん」なのです。

ベストテンは魅力の詰まった番組でした。人気の秘密はプロデューサーだった山田修爾さん(故人)ほか、多くの方々が語っていますのでここでは論じませんが、久米さんの存在が人気の一端であったことは間違いありません。番組冒頭ではレコード売り上げ、有線放送、ラジオリクエスト、はがきリクエストの順位を決める4要素をテンポよく一気に紹介、私もよく真似したものです。久米さんの司会の期間は約7年4カ月、当時、降板理由も明確にしていなかったことから、久米さんはしばらく休養するのだと思い込み、「将来の復帰」を願うはがきをリクエスト曲とともに番組宛てに送ったのをいまさらながら思い出しました。私が浪人生のころです。降板して約半年後、久米さんは「ニュースステーション」のキャスターに就任します。

ただ、ベストテンの司会を降板した後も久米さんは時折「ゲスト司会」として何度か出演され、そこに久米さんの真骨頂を見ました。記憶に残っているシーンが3つあります。

◎プレゼントに対する「久米流」のお礼

1989年1月5日、この年最初のベストテンの放送。番組の前半に久米さんがゲスト司会で出演しました。司会のテンポ、切れ味は健在。その久米さんがいよいよスタジオを去る時(もちろん、午後10時からのニュースステーション出演のためです)、名残惜しげだった司会の黒柳徹子さんは、久米さんが襟に着けていた飾りを見て「これ昔私があげたやつ。よく着けてくださったわね」とうれしそうに語りかけました。

普通の人であれば「いや、もちろんですよ」「久しぶりなんで着けてきました」「ありがとうございます」などと感謝を込めて答えるでしょう。しかし、久米さんはこの時、ニヤリとして黒柳さんに次のように返したのです。

「人にあげたものはよく覚えているんですよ」

ユーモアとアイロニー…ギリギリの境目を狙った絶妙な一言でしたが、そこには気づいてくれたことのうれしさがにじんでいるようでした。その数十分後、チャンネルを変えると、久米さんはベストテンのことにはまったく触れず(当たり前と言えば当たり前ですが)、ニュースステーションに臨んでいました。

ベストテンはその年の9月、約11年9カ月の歴史にピリオドを打ちます。時は平成元年、間違いなく昭和末期のテレビ史に残る番組の一つでした。

◎番組では出演NGに「おわび」……、その本心は?

ベストテンは“本放送”を終えた翌週の1989年10月5日、「さようならザ・ベストテン」と題した3時間の特別番組を放送。これまで出演した歌手のほか、歴代司会者も一堂に会しました。久米さんも途中退席という形でしたが、番組に参加していました。

番組は、出演した歌手をカテゴリーに分けて次々と紹介していく趣向でしたが、その中に「出演拒否」のカテゴリーがありました。前出の4要素のデータから1位から10位を決め、放送時間に歌手が歌うという趣旨としてはシンプルな番組でしたが、スケジュールなどの事情で出演がかなわないこともあれば、歌手の意向で出演しない場合もありました。番組ではそのたびに司会者が理由を説明し、頭を下げていました。

特別番組では出演拒否の歌手が紹介されるたびに、歴代司会者は誰もが「どうもすみません」「申し訳ございません」と、改めておわびのコメントを紡いでいましたが、最後、久米さんにバトンが渡った時の一言がこれでした。

「心からおわびをしたことは一度もありませんでした」

スタジオの盛り上がりが最高潮に達したのは言うまでもありません。

◎「目標の人」と言われて……、返答に黒柳さんも納得

ベストテンはその後も何度か「復活特番」が放送されています。もちろんメインの司会は黒柳徹子さんでしたが、男性の司会は歴代司会者のほか、様々な方々が担当していました。その1人が安住紳一郎さん。いまや「TBSの顔」であるアナウンサーですが、当時は「久米宏さんが目標」と語っていました。特番に電話で出演した久米さんはこのように答えました。

「目標はもっと高く持った方がいいんじゃないですかね」

復活特番でプロデューサーを務めた山田修爾さんは「第二の久米宏をつくりたい」と話していたと言います。自分が目標だと言われれば、普通は「光栄です」「うれしいです」「がんばってください」などという言葉を返すものですが、これも「久米流」でしょう。ただ、久米さんの回答に黒柳さんは「ほら、絶対そう言うと思っていた」とうれしそうに話していました。黒柳さんは久米さんの訃報に接し「あなたは本当の親友だった」というコメントを寄せましたが、平和への思いなど、2人の価値観がぴったり合っていた…これも「ザ・ベストテン」の魅力であったと思います。

■自分が自分であるために

私はニッポン放送にアナウンサーとして入社し、いまはラジオ報道の世界に身を置いていますが、僭越ながらこの仕事を選ぶ理由の一つに久米さんの存在が確かにありました。その実績には全く及ぶべくもありませんが、私が勝手に学んだことを一つ挙げるとすれば、「ほかとは違う、自分の世界をつくること」「自分が自分であるためには何をするか」を考え抜くこと。メディアの世界(だけとは言えませんが)は「あっちがあれならウチも」と、とかく「横並び」になりがちです。一方で、異端であることは相応のリスクを伴います。私も「こんなヤツ、1人ぐらいいたっていいじゃないか」という存在でありたいと思っています。

合掌。

(了)

Page top