《1952年ヘルシンキ・オリンピック1,500m自由形・銀メダリスト》橋爪四郎をご存知ですか? 【ひでたけのやじうま好奇心】

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8月15日終戦記念日。今年で戦後71年がたちました。

先日リオオリンピックの競泳女子200m平泳ぎで金藤理絵選手が金メダルを獲得しました。
その時ニュースで、前畑秀子さん、岩崎恭子さんに次いで、日本人3人目となる女子200m平泳ぎでの金メダルと聞いて「あぁ、そうだよなあ」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。

1936年のベルリンオリンピック、女子200m平泳ぎで、日本人女性として初めての金メダルを獲得したのが前畑秀子さん。
このベルリンオリンピックの次の大会1940年は実は、東京でオリンピックが行われるはずだった。
「幻の東京オリンピック」なんていう人もいる。
第二次世界大戦のために“幻”つまり中止になったわけです。

この時、オリンピックに本来なら出場できるはずだった選手、戦争のために涙をのんだ選手が世界中にいました。
そんな戦争に奔走されたアスリートでまっさきに思い浮かぶのは、「フジヤマのトビウオ」古橋広之進選手。
第二次大戦後、オリンピックが再開された1948年のロンドンオリンピックに日本は敗戦国という理由で参加することが許されませんでした。

そこで日本水連は、金メダル間違いなしと言われていた古橋広之進選手のために、ロンドンオリンピックの競泳の同日、同時刻に明治神宮プールで「全日本水上選手権」を4日間にわたって開催しました。

プールは超満員!

自由形1,500m決勝、古橋選手が18分37秒の世界記録を更新。
同時刻に行われたロンドンオリンピックの優勝タイムは19分18秒5。
およそ40秒も差をつけましたが、この時、日本は国際水泳連盟に所属していなかったので世界新記録としては認められませんでした。

この幻の世界記録の裏には、古橋広之進選手には一緒に切磋琢磨した、ライバルの存在がありました。
その人は橋爪四郎選手。
実は橋爪選手もこの「全日本水上選手権」で、古橋選手と一緒に泳ぎました。
しかも1,500m自由形で、古橋が18分37秒0。
橋爪は18分37秒8でわずか0秒8の差だったといいます。

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写真提供:産経新聞社

ふたりとも1928年生まれの同い歳で誕生日は、古橋選手が9月16日、橋爪選手が9月20日と、わずか4日違い。
しかし境遇はだいぶ違っていました。

戦後の混乱期、橋爪選手は奈良で工員をしていて将来のあてもない。夢もない。
そんなある日、新聞のお知らせ欄に
「琵琶湖競泳で優勝した古橋選手が、××中学に来校、模範水泳をする。希望者は講習可。」
と書かれているのを見た、泳ぎが得意だった橋爪青年は講習を受け、古橋選手から「東京へ来ないか、いっしょに水泳をやろう」と声をかけられた。
橋爪選手は内心「しめた」と思ったそうです。
そして日大競泳部に入部して、古橋選手と一緒に朝から晩まで、泳ぎつづけた。

その後、日本は国際水泳連盟の所属が認められ
橋爪選手や古橋選手ら6人は、ロサンゼルスで行われた「全米水上選手権大会」に出場。
古橋選手は、400m自由形/800m自由形/1500m自由形で相次いで世界新記録を達成し「フジヤマのトビウオ」と世界を震撼させた。
橋爪選手も予選で世界記録は出すものの、決勝では必ず古橋選手に負けて2位だった。

そんな橋爪選手が、古橋選手に初めて勝ったのは1952年のヘルシンキ・オリンピックの代表選考会の400m自由形。
実は、前年に古橋選手は南米に遠征し、リオデジャネイロのホテルで、赤痢にかかってしまい、その後思うようなレースは出来ず、1952年のヘルシンキ・オリンピックでは古橋選手は400m自由形で8位入賞どまり。生涯で、オリンピックでメダルを獲得することはありませんでした。

その時、橋爪選手は1,500m自由形で銀メダルを獲得しましたが古橋選手を気遣い「メダル」を他人に見せることはなかったそうです。

終戦記念日のこの時期に、オリンピックを見ていると思い出す古橋、橋爪の物語でした。

8月15日(月) 高嶋ひでたけのあさラジ!三菱電機プレゼンツ・ひでたけのやじうま好奇心」より

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