歌う漫画家・荒木ちえ~流しの師匠が病床で語った忘れられない言葉
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番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【10時のグッとストーリー】
昭和の花街の雰囲気をいまも色濃く残す、東京・新宿区荒木町。この荒木町で、いまでは珍しくなった「流し」の歌手としてお店を廻り、お客さんの似顔絵を描きながら歌うスタイルで人気を集めている女性がいます。
7年前から「流し」を始めた彼女は、おととし(2017年)まで「伝説の流し」と呼ばれた師匠と一緒に、荒木町で流しをやっていました。
もともと漫画家の彼女は、なぜこの道に入り、師匠が亡くなった後もこの街で1人「流し」を続けているのでしょうか? 街がつないだ、師匠と弟子の絆のストーリーです。
着物姿で、オリジナルの五弦三味線「五色線」を抱えて荒木町のお店を廻り、歌いながらサラサラッとお客さんの似顔絵も描く「歌う漫画家ちえ」こと、荒木ちえさん。歌謡曲から演歌、洋楽まで、リクエストに応じて歌いながら、お店を1軒1軒渡り歩いて行きます。
「1日20軒ぐらい回ります。『何時にどこの店へ来て』と、予約を頂くこともありますよ」
名古屋市生まれのちえさんは、幼いころから歌うことと絵を描くことが大好きな女の子でした。お母さんの影響で昭和の歌謡曲に興味を持ち、昔の曲を歌う一方、地元の美大を卒業後は漫画家として活動を開始。名古屋の情報誌に連載を持つなど、多才ぶりを発揮していました。
「歌も漫画も、手段が違うだけで、私にとっては同じ“表現”なんです」と言うちえさん。2010年、漫画家としてさらに上を目指すため上京。
先輩漫画家・東陽片岡(とうよう・かたおか)さんを訪ねたときに、「きみ、昭和の歌謡曲が好きなの? それなら本物の“流し”に逢わせてあげるよ」と引き逢わせてもらったのが、この道60年以上、当時の日本最高齢だった伝説の流し・新太郎師匠でした。
ちえさんは言います。「それまで昔の白黒映画でしか流しの人を見たことがなかったので、『うわー、本物の流しだ! シーラカンスだ!』と思いました(笑)」。
元・戦災孤児だった新太郎さん。1人で生きて行くため、14歳でギターを手にして全国を渡り歩き、70代になっても現役で歌い続けていました。カラオケの普及に押され、流しはどんどん数が減って行きましたが、新太郎さんは流れ流れて荒木町へ。いつしかこの街の“名物”になっていました。
東陽さんは、ちえさんに「きみは歌も上手いし、漫画家より表に出る方が向いてるんじゃない? 新太郎さんに弟子入りして、一緒に流しをやったらどう?」と提案。
ちえさんは二つ返事でOK。弟子を取らない主義だった新太郎さんも、「世話になってる人の頼みじゃ断れないな」と、ちえさんの弟子入りを認めました。
それから毎日、新太郎さんと2人で荒木町を廻ることになったちえさん。新太郎さんは、楽器や歌については「自分で見て覚えろ」と、何も教えてくれませんでした。
「ずいぶん理不尽なことも言われましたが、お酒の飲み方と、お店の人への気の使い方だけはしっかり教わりました。流しは、歌わせてくれるお店あっての商売だからって」
荒木町の人たちみんなに愛されていた新太郎さん。師匠に「相手の心を先回りして読め!」と何度も叩き込まれたことで、ちえさんもだんだん、荒木町の人たちに受け入れられて行きました。
そんなある日……新太郎さんに突然、異変が起こります。これまで何万回も弾いて来た曲のイントロが、突然弾けなくなったのです。すぐ病院に行くと、肝臓ガンが原因の「肝性脳症」でした。しかも、余命数ヵ月という診断。
ガン告知を受け、水しか飲めず体がやせ細っても、新太郎さんはちえさんと一緒に荒木町を廻り続けました。やがて歩くことも難しくなり、入院した新太郎さんを毎日見舞って、お客さんからの励ましの言葉や見舞い品を届けたちえさん。
5年も一緒に活動していると、ときにケンカをしたり、憎まれ口を叩き合ったりすることもありましたが、新太郎さんが病床で初めて「ありがとう」と感謝の言葉を口にしてくれたこと、今後の活動について心配してくれたことが、ちえさんは忘れられないそうです。
おととし8月、新太郎さんは75年の人生を閉じましたが、ちえさんは師匠の教えを胸に、いまも1人で荒木町を流しています。ちえさんは言います。
「もし将来有名になることがあっても、流しは絶対にやめません。地に足を付けて、お客さんと1対1で向き合うことの大切さを、師匠は教えてくれましたから」
八木亜希子 LOVE&MELODY
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