岡本行夫氏が新型コロナで死去~宮家邦彦「発想力、行動力、説得力を持つ“理想の先輩”だった」

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ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」(5月8日放送)に外交評論家・キヤノングローバル戦略研究所研究主幹の宮家邦彦が出演。4月に亡くなった外交評論家・岡本行夫氏について解説した。

東京国際大学・国際シンポジウム 岡本行夫(外交評論家)=2017年10月26日午後、東京都千代田区 写真提供:産経新聞社

外交評論家・岡本行夫氏が新型コロナウイルスに感染して死去

橋本龍太郎内閣や小泉純一郎内閣で、内閣総理大臣補佐官を務めたことでも知られる外交評論家の岡本行夫氏が、新型コロナウイルスに感染し、4月に亡くなっていたことがわかった。74歳だった。

飯田)宮家さんとは、外務省時代の10期先輩に当たるということです。

宮家)岡本さんは単なる先輩ではないのです。私にとってはビッグ・ブラザーであり、メンター、そしてロールモデル、理想形です。湾岸戦争のときに初めて仕事でご一緒したのですが、最初に出会ったのは1980年ごろです。私がエジプトでアラビア語を研修したときに、彼が研修指導官だったのです。初めは変な人だなと思ったのですが、後でとてもいい人だとわかりました。あれからもう40年です。一緒に仕事をしていて、彼の背中をずっと見ていました。発想力、行動力、説得力、とにかく、すべてにおいて私たちのお手本でした。彼が1991年に辞めると言ったときも、一緒に仕事をしていました。湾岸戦争で4WDを外国に出すか、出さないかというときだったのですが、突然電話がかかって来て「こっちへ来い。辞表を書くから横で見ていろ」と言われたのをいまでも覚えています。私が外務省を辞めるときも彼だけには相談しました。訃報を知ったのは7日夜でしたが、あまりにもショックでほとんど寝られませんでした。ご冥福をお祈りします。

戦艦ミズーリから発射されたトマホーク。湾岸戦争は、戦艦が使用された最後の紛争でもあった(湾岸戦争-Wikipediaより)

湾岸戦争時にすべてを動かした1人~役人らしからぬフットワーク

飯田)北米一課長をされていて、湾岸戦争のときは日本がどうするかを海外から突き付けられた瞬間でした。

宮家)あのときは安保法制のようなものはまったくなくて、ゼロからやらなければいけませんでした。でも自衛隊は出せない、お医者さんも中東には行かない。お金しか出せないので、130億ドルの資金協力をしました。それで「トゥーリトル・トゥーレイト」と言われたのですから、踏んだり蹴ったりの時期でした。でも、あのときの経験がいま活きていると信じたい。当時、すべてのものごとを動かし始めた人々の先頭にいたのが、岡本行夫さんだったのは間違いありません。あのとき課長レベルで、あれだけフットワークよく動いたのは彼だけでした。本当に伝説ですよ。

飯田)冷戦が終わって、日本はどういう国際貢献をするのだと突き付けられていた時期です。でも、このパラダイムシフトみたいなものは、役人のなかでも逃げる人は逃げるわけですか?

宮家)ええ、誰だとは言いませんが…。日本の国際貢献や国際的な地位も重要でしたけれど、いちばん我々が気にしたのは、アメリカとの同盟関係が壊れることでした。彼ら米国人が血を流そうとしているのだけれど、我々は血を流さないのですから。お金だけ出すことで本当に同盟が持つのかという、非常に深刻な懸念がありました。それを彼は体当りで突破して行ったのです。

飯田)当時は海部政権だったと記憶しているのですが、自民党の幹事長に小沢一郎さんがいた。小沢さんは自衛隊を出す派だったということが、後の報道でありました。

宮家)そうですね。でも、彼の声は実現しませんでした。その後、小泉政権である程度の活動は実現するのですが、その間に何年かかったのかということを考えると、1990年当時に岡本さんが考えたことは、遅々として進まないようで、日本も少しずつ進歩して来たということだとは思います。

首都バグダードで銃撃戦を行う米軍兵士(イラク戦争-Wikipediaより)

イラク戦争でも精力的に動いた

飯田)イラクで実現した自衛隊の派遣。そのときも岡本さんは、総理補佐官として関わっていらっしゃった。

宮家)あのとき私は北京にいて、奥克彦さん、井ノ上正盛さんの両名がイラクで亡くなりました。その後、私はイラクへ行きました。そのときも岡本さんが別途行動していた時期です。私と彼の付き合いはエジプトで始まって、イラクで2回も仕事ができたということでした。

飯田)総理補佐官はずっと官邸にいるようなイメージがあるのですが、イラク中を走り回っていらっしゃったのですか?

宮家)出張しては、イラクに入れるときに入って、奥氏、井ノ上氏と一緒に仕事をしていたのです。総理補佐官の役割はずいぶん変わりましたね。いまはより政策調整の役割の方が強くなりました。

飯田)あの当時は総理特使のような位置付けだったのですか?

宮家)特使ではなく、あくまでも黒子ですよ。ただ、外務省との役割分担は難しかったかも知れません。官邸対役所の始まりでもありました。

飯田)でも、あの当時はいまほど政治主導ではなかったから、その板挟みになり、お立場としては調整が難しかったのですね。

宮家)しかし官邸から見ると、普通の役所がやることは法令に従ってやっているからですが、とにかく遅いのです。しかも国民の目に見えないしアピールもできない。結果を残さなければいけないという意味では、いまも昔も補佐官の仕事は同じだと思います。

1996年(平成8年)1月11日 国務大臣任命式後の記念撮影(第1次橋本内閣-Wikipediaより)

発想力、行動力、説得力の3つを持つ岡本氏の魅力

飯田)その意味でも、先ほど挙げられた行動力と、それに裏打ちされた説得力があると。

宮家)でも、その前に、まず発想が重要なのです。大義があって、「これはやらなければならないんだ」と持って行かないと、誰も説得されません。発想力、行動力、説得力の3つすべてを持っている人は、なかなかいないですよ。

飯田)その発想の源泉は宮家さんがご覧になっていて、書物を読むなどというところだったのですか?

宮家)もちろん彼は勉強家でしたが、それよりも誤解を恐れずに言うと、役人らしくなかったことです。役人らしくないから発想力、行動力、説得力があった。責任回避と言ったら言い過ぎだけれど、役人というのは前例を踏襲して組織として仕事をやるものです。そこからすると、岡本さんは役人ではなかった。だから1991年に辞めてしまうのです。発想力、行動力、説得力があって役人を続けられるのは立派な人だと思うけれど、岡本さんはそうではなかったですね。

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