「時代の先」を読んで130年~岡山駅弁・三好野本店
公開: 更新:
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
今年(2021年)が創業130周年の岡山駅弁・三好野本店。じつは岡山特産のマスカットとも大きな関係があると言います。そんな三好野本店が歩んできた道のりについて、5代目の若林昭吾社長にたっぷりとエピソードを語っていただいています。今回は三好野本店と大いに関係のある岡山名物と、山陽新幹線岡山開業から瀬戸大橋開業のころのお話を伺いました。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第26弾・三好野本店編(第3回/全6回)
5月5日「こどもの日」。平成9(1997)年の登場以来、子どもはもちろん、大人にも幅広い人気を集めるのが500系新幹線電車です。平成22(2010)年までは、「のぞみ」として東京駅にも乗り入れていましたが、現在は8両編成となって山陽新幹線「こだま」で活躍。車内には「お子様向け運転台」が設置されており、本物そっくりのハンドルを操作しながら、実際に新幹線を運転している雰囲気を楽しむことができます。
(参考)JR西日本ホームページほか
500系新幹線電車ではハローキティのラッピングが施された「ハローキティ新幹線」も話題。このハローキティ新幹線をはじめとした多くのキャラクター駅弁も手掛けているのが、岡山駅弁の三好野本店です。「ハローキティの駅弁は、新宿伊勢丹勤務のときの人脈が活きている」と話すのは5代目の若林昭吾社長。社長としてはもちろん、地元のさまざまな団体のトップも務めており、岡山では知らない人のいない存在です。
●三好野本店には「岡山の初めて」がいっぱい!
―130年前、駅弁は「岡山で初めて」だったかと思いますが、岡山のマスカットも三好野本店と大きな関係があるそうですね。
若林:明治21(1888)年ごろ、岡山で初めてマスカットを作った3人が最初に持ち込んだのが、当時旅館だった三好野でした。これを主人が一口食べ、懐から財布を取り出し大金の小判3枚を渡すと、3人は小躍りして村まで帰ったと言います。これで「マスカットを作れば高く売れる」と評判になり、みんな、こぞってマスカット作りを始めたそうです。それが、岡山のマスカット作りのきっかけになったと云われています。
―「生ビール」も岡山で最初だそうですね?
若林:明治30年代に入って、「三好野ビヤホール」という岡山の西洋料理の草分けとなった店を作りました。ここで岡山初となる「生ビール」を提供したと言います。いま、ビールと言えば夏の飲み物ですが、当時の生ビールは「冬の飲み物」でした。いまのように冷蔵技術がありませんので、夏は腐ってしまうんです。当時はビールという飲み物を知りませんから、地元の人は遠巻きに見ているだけで、地元紙の支配人が体験した記事が残っています。
●「ひかりは西へ」で大忙し! 山陽新幹線岡山開業
―「おにぎり3個・奈良漬2切」から始まった三好野本店の駅弁ですが、その後はどんな駅弁を作っていたのですか?
若林:第二次世界大戦までは、軍から食材を提供してもらう「軍弁」が大きなウェイトを占めていました。特に岡山は、呉へ行く軍人さんや四国へ渡る軍隊も多かったので、よく作られていました。九州から大陸へ夜に渡るとなると、岡山の通過時間は昼ごろになりますから。戦後も幕の内駅弁が中心でした。大阪の高島屋で開かれた草創期の駅弁大会などでも、八角の折に詰めた幕の内を作っていました。
―岡山駅弁にとって、ターニングポイントとなった時期は?
若林:昭和47(1972)年の山陽新幹線岡山開業です。皆さん、新幹線で岡山まで来て、そこから在来線特急に乗り換えていきましたので、もう「作れば売れる」という時代でした。駅弁があまりによく売れるので、国鉄の人たちも、欠品がないように三好野の工場へ来て、製造・搬入状況をチェックすることもありました。昭和50(1975)年の博多開業までの3年間が、いちばんいい売り上げを記録した時期ですね。
●瀬戸大橋開業・モータリゼーションの進展、時代の先を読んで対応
―三好野本店でも、新幹線開業の先を読んで準備されていたんですよね?
若林:このときは父が社長の時代ですが、父は終戦後、広島のGHQで通訳の仕事をしていたこともあって、アメリカナイズされていました。なので、新幹線も来る一方で、日本でもモータリゼーションが進展すると見越して、開業2年前の昭和45(1970)年、市内郊外の青江に、結婚式場・宴会場・レストラン・喫茶を持つ「ニューみよしの」を建設して、工場も併設しました。駅前と2ヵ
―国鉄からJRへ、そして瀬戸大橋開業と、その後も大きな環境の変化が続きましたね?
若林:JRになってすぐ、昭和63(1988)年の瀬戸大橋開業では、新幹線開業のときほどではありませんが、多くのお客様がお越しになりました。このときはJRも民間会社になったので、独自に弁当会社を設立するなど、厳しい競争にさらされた時期でもありました。ただ、長野岡山県知事(当時)の力添えもあって瀬戸大橋博へ出店ができたり、行政をはじめ、地元・岡山の皆さんの支えをとても心強く感じた時期でした。
新大阪~博多間の山陽新幹線は昭和47(1972)年に新大阪~岡山間が開業。3年後の昭和50(1975)年に博多までの全線が開業しました。「ひかり」で6時間56分かかった東京~博多間も、いまは最速の「のぞみ」が4時間46分で結びます。そんな山陽新幹線ゆかりの岡山駅弁と言えば、「山陽新幹線40年旅物語 せとうち日和」(1000円)。平成27(2015)年の山陽新幹線40周年を記念して生まれた駅弁です。
【おしながき】
・あなご飯
・俵型おにぎり(赤米入りご飯・白飯)
・岡山県産豚の唐揚げ 黒酢あん(赤ピーマン添え) 玉ねぎ炒め
・開き海老の天ぷら
・鶏の照り焼き
・しらすと小松菜のお浸し
・茄子と人参のそぼろあん いんげん
・蓮根の辛子マヨネーズ和え(むき枝豆添え)
・ひじきと野菜煮
・さつま芋きんとん
当初は期間限定で販売されながら、好評でレギュラーに昇格した「せとうち日和」。岡山県産赤米も入った俵型おにぎりと、瀬戸内らしいあなごめしの2つのご飯が楽しめる駅弁です。おかずも豚肉、鶏肉の2つの肉料理をはじめ、海老の天ぷらや三好野本店自慢の蓮根の辛子マヨネーズ和えが少しずつ入って、デザートのさつま芋きんとんまで、あっという間に完食できてしまいそうです。
国鉄最後の新形式電車として岡山地区に投入され、快速「備讃ライナー」、瀬戸大橋開業後は快速「マリンライナー」として活躍した213系電車。いまも岡山の普通列車の他、1編成が観光列車「ラ・マル・ド・ボァ」に改造され、週末を中心に宇野線(宇野みなと線)、山陽本線などで活躍しています。かつては宇高連絡船が発着した宇野駅の構内営業も行っていた三好野本店です。
この記事の画像(全10枚)
次回は、名物駅弁・祭ずしの誕生秘話に迫ります。
連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/