沖縄返還50周年は未来への“一里塚”
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「報道部畑中デスクの独り言」(第291回)
ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は、沖縄返還50周年について---
2022年5月15日、沖縄が日本に復帰してから50年を迎えました。私は取材で沖縄に入りました。現地はすでに5月4日に梅雨に入っており、那覇空港に着いた瞬間、南国らしい生温かい空気を感じました。
当日の復帰記念式典。沖縄は宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで、岸田文雄総理大臣、玉城デニー県知事が出席し、天皇・皇后両陛下はオンラインによるご臨席でした。そして、東京のグランドプリンスホテル新高輪を結ぶ、いわば「三元中継」となりました。
インターネットによる生配信も実施。新型コロナウイルス対策ということもありますが、やはりここは技術の進歩、50年前とは大きく違うところです。
岸田総理は前日に沖縄入りし、沖縄戦が行われた摩文仁の平和祈念公園にある戦没者墓苑や、3年前の火災で正殿が焼けた首里城などを訪れました。視察後、総理は首里城について、今年(2022年)11月に正殿の復元に着工する方針を明らかにしました。
一方、県内では基地解消を求める「市民行進」も行われました。「基地のない沖縄を」……こうした声への対応を問われ、岸田総理は「すぐに答えが出るものではない厳しい現実はあるが、県民の皆さんの声をできるだけ受け止めながら、最善の努力を続けていく姿勢は大事にしていきたい」と答えました。米軍基地の70%が沖縄県に集中している現実を認めながらも、解決には時間を要する……歯切れの悪い回答に終始します。
今回の50周年は果たして祝事なのか。那覇市の中心地、国際通りで聞いた県民の声には、世代によって認識のギャップがありました。
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「自分的にはめでたいんじゃないかな。(50周年と)言われて、『ああ、そう言われればそうか』という感じで、あまり実感というか……目立ってお祝いしているわけでもない」(27歳/女性)
「(復帰の)そのときを知らないので、戦争のあとの流れでそうなっているというイメージだと、素直に喜んでいいのかどうかよくわからない。複雑な気持ちになる。平和であって欲しい、ただそれだけ」(30代後半/女性)
「終戦の年に生まれた。父も防衛隊で引き取られて亡くなった。基地(問題)を放っておいて、喜ばしいことになるのか。(50年前と)そんなに変わっていないのではないか。よくなって欲しいのだけれど」(70代/男性)
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国際通りは夜の帳が降りると、日中とはまた違った華やかな表情を見せていました。
復帰50年に合わせて、東京でも歴史を紐解く記念イベントが行われています。九段の国立公文書館では、沖縄戦からアメリカ施政下の時代、復帰、そして振興……その節目節目で交わされた文書が展示されていました。
当時の佐藤栄作総理大臣は1965年(昭和40年)8月、戦後の総理として初めて沖縄を訪問。「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国にとって戦後は終わっていない」と述べました。安倍晋三氏が更新するまで、戦後の総理在職日数で歴代最長を誇っていた佐藤氏が悲願としていたのは、この沖縄復帰でした。
沖縄訪問後の日記が、国立公文書館に展示されていました。
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十九日
八時半羽田を出発して沖縄に向ふ一行記者
諸君を入れて八十名の大世帯勿論一機
借切り。台風後の快晴に恵まれ誠に快
適なり。本土中ハ自衛隊機、沖縄では
米軍機に守られこれ亦一偉容。
所要時間二時間半で沖縄着。空港での
出迎へ礼砲等型の如く空港での挨拶も
まづまづ。一旦ホテルに入り更に米政府に
ワトソン、琉球政府に松岡首席(同じ建物)を
おとづれ植樹。赤旗の出迎へも此処でハ
極めて少数だが日の丸の旗の波に交
りジグザグ行動等とる然し国旗の波に
押れて気勢上らず、国映館での歓迎退会
非常に評判よろしい至る処旗の波。
午後戦跡巡り姫百合の塔。国守の塔(知事)
れいめいの塔(牛島司令官)等を巡歴して帰る
盛に涙を流す。
記者会見もスムーズ。
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天気は台風一過の快晴、沖縄では日の丸に迎えられ、到着のあいさつや記者会見も満足のいくものだったことが記されています。一方で「本土中ハ自衛隊機、沖縄では米軍機に守られ」……アメリカ施政下の状況が表れています。思えば、インタビューを行った国際通りではレンタカーを運転しましたが、車の左側通行は決して当たり前のことではないのです。
1972年(昭和47年)5月15日の復帰記念式典は、那覇市民会館で行われ、当時の屋良朝苗知事が「言い知れぬ感激とひとしおの感慨を覚える」としながら、「これからもなお厳しさは続き、新しい困難に直面するかも知れません」と述べました。
一方の東京会場、日本武道館で佐藤総理大臣は、「戦中、戦後における沖縄県民各位のご労苦は何をもってしてもつぐなうことはできませんが、今後本土との一体化を進めるなかで、沖縄の自然、伝統的文化の保存との調和を図りつつ、豊かな沖縄県づくりに全力を挙げる」と決意を述べました。万感の思いであったことがうかがわれます。
さて、現代に戻ります。15日午後2時から開かれた返還記念式典、会場はざっと1000人以上の席がありましたが、内閣府が発表した出席人数は781人にとどまりました。私は2階の記者席から式典を見ました。
天皇陛下は「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は『ぬちどぅたから』(命こそ宝)の思いを深められたと伺っていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致しつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます」と述べられました。
また、岸田総理大臣は「復帰から50年という大きな節目を迎えた今日、私は沖縄が、アジア太平洋地域に、そして世界に力強く羽ばたいていく、新たな時代の幕が開けたことを感じています」と未来への展望を示しました。
一方、玉城デニー知事は、今後の沖縄について政府に要請します。
「沖縄県民が渇望し続けている沖縄の本土復帰の意義と恒久平和の重要性について、国民全体の認識の共有を図っていただき、すべての県民が真に幸福を実感できる平和で豊かな沖縄の実現に向けて、誠心誠意取り組んでいただきますよう申し上げるものであります」
レセプションでは琉球舞踊や、古い泡盛に新しい泡盛を継ぎ足して、古酒の風味を保っていく世界的にも珍しい古酒しつぎの儀など、粛々かつ厳かに式典は進んでいきました。
玉城知事は式典に先立ち、政府に県民の意見を伝える「建議書」を発表しました。これは50年前に屋良朝苗行政主席、後の沖縄県知事が発表した建議書を基につくられたものです。新たな建議書には「『沖縄を平和の島にする』という目標は50年が経過した現在においても未だ達成されていない」と記されています。さらに日米地位協定の見直しや、「構造的、差別的と言われる沖縄の基地問題の早期解決」が謳われました。
一方、昨今はウクライナ情勢、尖閣諸島、東シナ海の問題など、安全保障のあり方も問われています。さらに、1人当たりの県民所得の低さ、子どもの貧困問題……先人が語った「新しい困難」は乗り越えられたのか、「本土との一体化」は実現しているのか。半世紀がたって何が変わり、何を守っていくのか。今回の50年の節目は、課題解決への“一里塚”に過ぎないと感じます。
式典後、玉城知事は岸田総理に新たな沖縄振興計画を手渡しました。お互いが着ていたかりゆしは、岸田総理は明るい青、玉城知事は濃紺……「未来への期待感」と「重い課題」とのコントラストが表れていたと感じます。(了)
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