元内閣官房副長官補で同志社大学特別客員教授の兼原信克氏が7月11日、ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」に出演。7月8日、街頭演説中に狙撃され、亡くなった安倍晋三元総理について語った。
真っ暗ななか、たいまつ1本で突っ込んでいく
飯田)兼原さんは内閣官房副長官補のみならず、2014年1月~2019年には国家安全保障局次長を務められ、安倍政権の外交安保政策立案の中心人物でもありました。まずはニュースの一報を聞いたとき、どのような思いになられましたか?
兼原)突然、真っ暗になったような気がしました。
飯田)安倍さんはどのような政治家、あるいは内閣総理大臣であったと思われますか?
兼原)長州の人なので、真っ暗ななか、午前3時か4時に、たいまつ1本で突っ込んでいくような人でした。
飯田)たいまつ1本で。
兼原)時代の10年先を走っておられたと思います。
外交は首脳会談が大切であるということを理解していた
飯田)特に外交面を考えると、これだけたくさんの海外の要人が悔やむ気持ちを表明し、多くの国で半旗が掲げられています。外交的な業績という部分も大きかったのでしょうか?
兼原)当時は菅官房長官がおられたので、菅さんが内政を行い、安倍元総理は安全保障と外交に全力で向かっておられました。「世界中の元首と親しくなるぞ」という感じで相当、無理して会っておられました。
飯田)国会の会期中であっても、金曜日の夕方から土日にかけての海外出張もかなり行われていましたね。
兼原)外交の決め手は首脳外交なので、その大切さが本当によくわかっておられた総理だったと思います。
「世界史をつくってやる」という意気込みでFOIPなどの大きな枠組みを主導
飯田)さまざまな地域構想もありました。「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」も提唱されました。こういった枠組みづくりの部分は大きかったですか?
兼原)FOIPやTPP、RCEPなど、世界的に大きな枠組みをつくった指導者は明治以降、初めてです。「世界史をつくってやる」というような気持ちがあったと思います。
飯田)世界史をつくってやる。
兼原)そうですね。
第2次政権の初めのころは、最初から怖いほどの迫力だった
飯田)兼原さんもご著書等でお書きになっていますけれど、「もう1度世界の檜舞台に立つのだ」という思いは共通していましたか?
兼原)そこは力を入れておられたと思います。最初にアメリカで行った講演の名前が「Japan is back」なのです。日本は帰ってきたということで講演されましたが、総理の姿勢を最も示していると思います。
飯田)第1次政権が志半ばで終わってしまい、やり残したことがあるという思いが総理のなかにあったのでしょうか?
兼原)最初のころは、嵐のなかを全力で飛行機が上がっていく感じです。「落ちても飛ぶのだ」という感じでした。今度はもう絶対にやり残すことがないようにするのだという様子で、あの迫力はすごかったです。初めは怖かったですよ。
飯田)怖かった。
兼原)怖かったです。迫力が。
飯田)兼原さんは、毎日のようにブリーフィングされるお立場だったと思いますが、そこでも怖いような雰囲気があったわけですか?
兼原)ありましたよ。「今回は絶対に後悔しない」という印象がありました。普通はリスクを考えて、どんな総理大臣でも若葉マークから始めるのですけれど、いきなりギアをトップに入れて、という感じでした。
最大限のリスクを取り前へ出る
飯田)向かうところ敵だらけのなかでやっていく、そのリスクや覚悟は、どこで生命が絶たれてもおかしくないという状況のなかで進んできた。安倍さんご自身が腹をくくっているところはありましたか?
兼原)最大限、リスクを取っておられました。2回目ですからね。とにかく前に出るという感じでした。結果がどうであれ、とにかく前に出る。政治家ですから、もちろん勝つように仕組んでいくのです。負ける喧嘩は簡単にはしませんけれども、生きている間に1つでも前に出るという感じでした。
憲法改正、防衛費増額など残る大きな仕事 ~岸田総理を支える立場で行おうと
飯田)その目標は、7年8ヵ月の第2次政権のなかでどこまで達成されたと思いますか?
兼原)まだ憲法改正や防衛費の増額など、大きな仕事が残っています。今度は党の方から岸田総理を支えようと思っていたのではないでしょうか。残念ですよね。
飯田)外交・安保の部分と経済が融合する経済安全保障については、岸田政権で基本の法律ができて、「これから」というところだったわけですよね。
兼原)そうですね。これはなかなか大変です。
飯田)大変。
兼原)75年間、変わらなかったところですので。
飯田)経済活動に関しては、民間の力でとにかく自由にやる。「安全保障の部分とは切り離す」という考え方が、日本のなかでは常識としてあったのですか?
兼原)そうなのです。敗戦国で「もう軍事をやるな」と言われたことがありました。冷戦中には社会党や左の方から、「軍事を増強するな」というソ連側の立場の意見が入ってきて、何となく「もう経済一本でいいではないか」となってしまったのです。
ロシアのウクライナ侵攻について
兼原)安倍政権の間に中国が3倍の大きさになったのです。問題がある国の後ろの国をとりにいくということは、外交の定石です。だからロシアのプーチン大統領とも、インドのモディ首相とも一生懸命対話していました。インドは民主主義国家で、こちらに近付いてきているから引き寄せようとしたのですが、プーチン大統領に対しても、難しいのに一生懸命やられていました。でもプーチンさんがああいうことをしたら、それはダメですよね。
飯田)戦略の部分もあるからこそ、プーチン大統領とのやりとりが当然あった。
兼原)中露の両方と喧嘩はできないから、ということですけれども。あそこまで明白な侵略をされると、それは世間が許さないですよね。
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