「安倍元総理が私たちに残したもの」国葬を前に兼原信克氏が語る

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元内閣官房副長官補で同志社大学特別客員教授の兼原信克が9月26日、ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」に出演。安倍元総理の功績について解説した。

「安倍元総理が私たちに残したもの」国葬を前に兼原信克氏が語る

安倍晋三元首相インタビュー=2010年10月4日 写真提供:産経新聞社

安倍元総理が残した日本の外交・安全保障

9月27日、東京・日本武道館で安倍元総理大臣の国葬儀が執り行われる。安倍元総理が残した日本の外交・安全保障政策とは何だったのか。

安倍元総理がつくった「自由で開かれたインド太平洋」 ~世界史に名が残る

飯田)安倍さんの残したものを語るとなると、筆頭として出てくるものは何ですか?

兼原)「自由で開かれたインド太平洋」ではないでしょうか。世界史に名前が残るものだと思います。

飯田)世界史に名前が残る。

兼原)トランプさんがそのまま流用して、「インド太平洋軍」と米軍の名前が変わってしまいました。他にもイギリス、フランス、ドイツ、ASEAN、豪州がすべて「インド太平洋」と言い始めたのです。流れをつくったのだと思います。

安倍元総理の「これからはインドだろう」という発言に大熱狂したインドの国会

飯田)インド太平洋には、インド洋と太平洋という2つの海が入っています。調べると、第1次政権のときにそういう演説をされています。

兼原)2007年ですね。安倍元総理が「これからはインドだろう」ということを言ったら、インドの方々が喜んでしまって、インドの国会が大熱狂したのです。ものすごく熱狂的な反応がありました。やはりインドは待っていたのです。

飯田)待っていた。

兼原)インドは中国に2回侵略されているので、日中国交正常化と米中国交正常化のときに、彼らは仕方なくロシアにくっついたのです。非同盟なのですけれども、武器を買わなくてはいけなかったから。そうしたら中国とアメリカが喧嘩してしまい、インドは賢いですから、立ち位置を日米同盟側に変えてきた。現在、中国とインドはすれ違っている最中なのです。

飯田)いま。

兼原)アメリカから出ていく中国と、アメリカの方に近付きたいインドがちょうどすれ違っている最中なのです。そこで安倍元総理が、「これからはインドがパートナーになる」ということを言ったので、インドは喜んだのです。

飯田)安倍元総理の発言に。

兼原)世界的な規模で考えている人たちは、中国が強くなりすぎているので、インドをプレーヤーに入れなければならないと考え始めていた時期でした。それを最初に安倍さんが言ったのです。

ロシアとは一線を画しているインド ~これまでのこともあり、気は遣っているが

飯田)インドの人たちは、それをよく覚えていたということですか?

兼原)インドからすると、インド、中国、ロシアというユーラシア三大大陸国家のなかで、「唯一の民主主義国家は自分たちだ」と思っているわけです。ガンジーさん、ネルーさんの国で。

飯田)ユーラシア三大大陸国家のなかで。

兼原)毛沢東氏がアメリカにかわいがられたわけでしょう。「なぜだ」と思っているのです。自分たちは武器を買わなくてはいけないので、ソ連に面倒を見てもらっていたわけですよ。しかし、ソ連とは1回も軍事演習をしていません。一線を画しているのです。

飯田)線はきちんと引いて、ここから先には行かないという。

兼原)これまで面倒をみてもらったので、急激に無下にはできないから、少しプーチンさんに気を遣っていますけれども。

飯田)モディさんは上海協力機構の会議で、「いまは戦争している場合ではない」と直に言いました。

兼原)プーチンさんに忠告したのだと思います。「この戦争は何もいいことがない」と言ったのでしょう。プーチンさんは破れかぶれになっているので、聞く余裕はないと思いますが。

「安倍元総理が私たちに残したもの」国葬を前に兼原信克氏が語る

2022年3月19日、日印首脳会談~出典:首相官邸ホームページ(https://www.kantei.go.jp/jp/101_kishida/actions/202203/19india.html)

世界史に名を残したのは吉田茂元総理以来

飯田)「自由で開かれたインド太平洋」のような「日本からの提案」は、世界の外交史においてもあまりありません。

兼原)吉田茂さん以来ではないですかね。戦後、世界史に影響があった人は。

飯田)サンフランシスコ平和条約。

兼原)あれで西側に舵を切ったのが吉田茂さんです。それを完成させたのが、安倍元総理の祖父である岸さんなのです。

飯田)戦後占領があった時期は、どちらに転ぶか、まだわからなかったのですね。

兼原)1950年代はまだわからなかったと思います。だからフルシチョフ氏が「北方2島は返してもいい」と言ったわけです。「こちらへおいで」という意味で。「55年体制」というのはそういうことですから、社会党対自民党がぶつかり始めたときです。

飯田)社会党と自民党が。

兼原)そのころ自衛隊ができて、日米同盟に入るなど、アメリカと一緒に動き始めます。私たちのように、高度成長時代に長髪でベルボトムを履いて「アメリカだよね」という世代は、そのあとに出てくるのです。

飯田)高度成長期に。

兼原)その10年前の人たちは、まだ半分くらいが「共産圏の方がいい」と信じていた時代があったと思います。

21世紀は「日本がリーダーだ」と出てきた安倍元総理

飯田)その後、冷戦が終わって、新たな価値観を確立したのが安倍さんだった。

兼原)中興の祖として中曽根さんがおられて、小泉さんや小渕さんなど、立派な方もいらっしゃいました。しかし、冷戦が終わって完全に勝ち組に入り、「これからはリーダーだ」というときに、自分がリーダーだと、「自由主義社会を支えるのだ」として出てきたのが安倍さんです。吉田さんはまだ敗戦国の総理ですから。安倍さんは、「21世紀は日本がリーダーだ」ということで打って出たのだと思います。

戦後70年のなかで「何がよく、何が悪かったのか」をはっきりさせなくてはならない ~正義はアジアの独立と人種差別の撤廃だった

飯田)在任中にもさまざまな節目がありましたが、そのうちの1つに「戦後70年」という節目や、安倍さんの談話もありました。

兼原)総理は個人的に悩んでおられて、「日本が全部悪かったから、ずっと土下座して謝る」ということは受け付けない方でした。しかし、「すべて正しかった」というわけでもありません。

飯田)戦後70年のなかで。

兼原)「何がよかったのか、何が悪かったのか」をはっきりさせなければならない。「このまま永遠に自分の子孫たちが謝るのはおかしいのではないか」と言われていました。

飯田)謝り続けるのは。

兼原)自分たちはアジアを侵略したと言われるけれども、入っていったときには、全部ヨーロッパの植民地なわけです。日本が負けたときは、アメリカ以外は鉄砲を持って再征服に帰ってきたのです。「日本は悪いことをした」と言われましたが、あれでよかったのか。

飯田)よかったのかと。

兼原)「何が正義なのか」と悩まれていました。結論はみんな負けたではないかと。正義はアジアの独立と人種差別の撤廃だった。それができたのだろうということなのです。

100年かけて世の中はよくなった ~人間が平等になったのはつい最近のこと

兼原)そして今日の世界がある。それが自由主義の世界なのだろうと。「私がそのリーダーになる」ということだったのです。

飯田)安倍元総理が。

兼原)みんな負けたから、今日の世界があるのだろうという。人種差別もないし、アジアの国も全部独立しているし、この世界を守らなくてはいけないということです。

飯田)独立した世界を守らなくてはならない。

兼原)それで70年談話を書いた。冒頭は「日本が明治に国を開けたら、周りは全部植民地であった」ということから始まるわけです。「これは何なのだ」というところから始まる。「100年かけて世の中はよくなったのだ」と、70年談話のあとによく言われていました。

飯田)100年かけて。

兼原)世界史全体を100年間見なくてはダメだとおっしゃっていました。自分のいまの立ち位置がわかるからと。

飯田)弱肉強食のジャングルが、法の支配によって徐々に秩序立ったものになり、安心できるようになった。

兼原)アジア人も色がついていようが、ついていまいが、人間は平等だという考えになってきたのはつい最近なのです。

「安倍元総理が私たちに残したもの」国葬を前に兼原信克氏が語る

2020年4月17日、会見を行う安倍総理~出典:首相官邸ホームページ(https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/actions/202004/17kaiken.htm)

ヨーロッパの植民地支配が崩れてから半世紀

飯田)ヨーロッパのなかで「価値観としての自由」はあったけれども、その下敷きとして彼らは植民地支配を行っていたではないかと。

兼原)ヨーロッパにおける民主化や法の支配は、はじめは国内だけなのです。国外は昔のままの植民地支配をしていた人たちですから。それが崩れるのは1960年代くらいです。

飯田)1960年代。

兼原)たった半世紀前なのです。

飯田)アフリカの年と言われた。

植民地支配から最後には勝ったアジア人

兼原)しかも、私たちが戦争に負けたあとです。私たちが負けたときに終わっていなかったから、日本人は悔しい思いをした。「なぜ私たちだけが悪いと言うのだ」というようなことを言うのです。「みんな悪かったのだ」というのが結論です。そして最後にアジア人は勝ってしまった。典型的なのはガンジー、ネルーです。あとはスカルノやホーチミンなど、みんな頑張ったわけでしょう。

飯田)それぞれの国、それぞれの立場において。

兼原)いろいろなバリエーションはありますけれどもね。ガンジーさんは非暴力・不服従を提唱し、最後は自分が殺されてしまったけれども、ホーチミンさんは鉄砲を持って戦った。たまたまこの人はアメリカに拒否されたので、共産主義になりましたけれども、彼はアメリカでもソ連でも、どちら側でもなかったのです。

飯田)とにかく民族の独立を目指した。

兼原)アメリカがフランスについていて、仕方がないからアメリカと戦っただけなのです。

飯田)なるほど。だからそのあと中越戦争になっていくわけですものね。

兼原)そうです。

飯田)とにかく支配から独立するという考えだった。

兼原)キューバもそうです。別に共産主義が好きだったわけではなく、アメリカ資本が島を支配しているのが嫌だったのです。

飯田)ある意味、異議申し立てを最初に行ったのも我々だったし、失敗したのも我々だった。

兼原)そうなのです。「アジアの解放」と言いながら攻め込んでいった。そこが少し日本ははっきりしないのですよね。

戦後の冷戦の分断も終わり、新しい日本を残さないといけない

飯田)最後に安倍さんが残したことについて、皆さんへメッセージをお願いいたします。

兼原)野田元総理もそうなのですけれども、安倍元総理は私たちと同じ世代として、初めての総理なのです。高度成長期に青春を送った人たちなので、復古主義的な帝国主義者ではまったくないし、マルクス主義とは逆の立場の人です。「自由主義でいいではないか」と、みんな平等で法の支配があって、何でも話し合いで決めるという。

飯田)何でも話し合いで決める。

兼原)日本はもう戦後の分断を修復して、「若い人たちにそういうものを残そう」とおっしゃったのだと思います。野田さんもそうですが、あの2人には同じものを感じました。野田さんは安倍元総理の葬式に出席するということです。

飯田)そうですね。

兼原)安倍さんは、戦後の冷戦の分断も終わり、「新しい日本を残さないといけない」と考えておられたと思います。

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