それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
埼玉県熊谷市で行われる「星川とうろう流し」は、熊谷空襲の犠牲者の慰霊と恒久平和の願いを込めて、夕闇の星川に数百もの灯籠が流される行事です。
昭和20年8月14日、深夜11時30分ごろ。数十機のB29が襲った熊谷空襲は太平洋戦争「最後の空襲」と言われています。戦闘機の部品をつくる下請け工場があったという理由で、市街地の3分の2が焼き尽くされ、266人の尊い命が犠牲となりました。
この空襲に遭遇したのが、7月に亡くなった作家の森村誠一さんです。当時12歳だった森村さんは家族とともに桑畑に隠れ、一夜を明かしました。
翌朝、自宅へ戻る途中……熊谷の中心地を流れる星川に、戦火を逃れようとして飛び込んだ人々が折り重なって亡くなっているのを見ました。そのなかには森村さんが好きだった女の子もいて、「真夏の光を浴び、まるで水浴びをしているかのように見えた」と言います。初恋の人でした。
『人間の証明』をはじめ、数々のベストセラーを世に出した森村さんですが、多感な時期の戦争体験がその後、小説家になる原動力になりました。
森村誠一さんや、俳人の金子兜太さんも賛同人になったのが、市民団体「熊谷空襲を忘れない市民の会」です。代表は、元小学校教諭の米田主美さん・78歳。会の発足は8年前、2015年のことでした。
「当時、安全保障関連法(安保法)の成立が強行され、若いお母さんたちの間で『このままだと日本が戦争を始めるのでは?』という不安が広がっていました。どんなことがあっても戦争を始めてはいけない。そんな思いからこの会を発足しました。戦争反対とともに、熊谷空襲の記憶を風化させないため、講演会やイベントの企画、会報の発行などを通じて市民が学び合う場を提供しています」
8月12日にはパネルディスカッションが行われました。熊谷空襲に関する大学生のレポートによると、星川で亡くなった人のほとんどは窒息死だったそうです。空襲体験者からは「焼夷弾が降る音は夕立のような『ザー!』という音だった」など、貴重な証言も報告されました。
「戦争体験者から話を聞いた若い学生が、未来へバトンをつないでくれる。それがとても嬉しいですね」と話す米田主美さんは、元小学校の先生であり、朗らかで明るい人柄です。ところが話をうかがってみると、熊谷空襲とは切っても切れない人生を歩まれていました。
米田さんの父は熊谷陸軍飛行学校の教官でした。戦局が悪化するなか、教え子を特攻隊に送り出すと、自らも特攻で飛び立ち、昭和20年3月19日に戦死しました。
身重だった米田さんの母は熊谷から秩父の知人宅に疎開し、昭和20年8月14日に出産。「熊谷空襲の日」に米田さんは生まれたのです。
父を知らず、働く母の背中を見て育った米田さんは、熊谷女子高から埼玉大学に進学します。しかし、学生時代も教員になってからも、戦争にまつわる自身の体験を積極的に明かすことはありませんでした。
教員を退職後、趣味の1つとして「詩」を書き始めます。すると、浮かんでくるのは娘の顔を見ることなく戦火に命を落とした父や、苦労して自分を育ててくれた母のことばかり……なぜか作品は、戦争や空襲に関する内容が中心になっていきました。
3年前の2020年8月14日。熊谷空襲の日、そして米田さんの誕生日に、初めての詩集を出版しました。最後に、詩集『私が生まれた日』から詩をご紹介します。
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『私が生まれた日』米田かずみ
「もう、僕はこれで帰れないから」
父は特攻で出て行った
母のおなかにいた私は
母の涙を知らなかった
生まれた日
街は焼き尽くされ
母は私を産み
私を抱いて
残骸になった自分の家の焼け跡を見た
乳も出ず
泣くばかりのわが子を抱きしめた
三月十九日
父はすでに南の空に散って逝ったことを
母は知らなかった
一九四五年八月十四日
それは熊谷空襲のあった日
私は焦土と化した
瓦礫の中で生まれた
翌日
天皇の玉音放送が流れた
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■「熊谷空襲を忘れない市民の会」(Facebook)
https://www.facebook.com/kumagaya.peace/
■『最後の空襲 熊谷 8月14・15日戦禍の記憶と継承』
熊谷空襲を忘れない市民の会/編(社会評論社)
https://www.shahyo.com/?p=8206
■『米田かずみ詩集 私が生まれた日』(東方社)
番組情報
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