それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
お盆の帰省シーズンを迎えようとしている東京・品川駅。約3分おきに発車していく、新幹線「のぞみ」号を待つ人の列が絶えません。
80年近く前の品川駅にも「のぞみ」……正確には「今井のぞみ」ちゃんという幼い女の子を待つ、2人の男性がいました。1人はお父様の今井献さん、もう1人は母親のお兄さん、いわゆる「伯父さん」の小野寺透さんです。
献さんは、のぞみちゃんがお腹のなかにいるときに召集され、ガダルカナル島へ送られました。お母様の今井純子さんは1人でのぞみちゃんを産み、満州で暮らしている義理のお母さんに赤ちゃんの顔を見せたいと、乳飲み子を連れて海を渡りました。
しかし、1945年8月のソ連侵攻で、義理のお母さんだけでなく、のぞみちゃんの母親・純子さんも命を落としてしまいます。3歳にして、たった1人になってしまった「のぞみ」ちゃんは、2人の骨壺を抱えて引き揚げ船に乗れる日を待ちます。
終戦から約2年後。「のぞみちゃんが日本に帰って来る」という知らせが、九死に一生を得て帰国していたお父様に届きました。お父様は伯父さんと一緒に、引き揚げ者を乗せた列車が着く品川駅へ迎えに行きます。待ちに待った列車の到着が告げられると、続々と引き揚げ者たちが下りてきます。
しかし、探せども探せども、のぞみちゃんの姿はありません。ほどなく関係者がお父様に非情な一言を告げました。
「お嬢さんは残念ながら、到着するちょうど2時間前に……息を引き取りました」
栄養状態も十分ではなかったと思われる幼い女の子に、この長旅は酷なものでした。お父様が初めて抱いたのぞみちゃんは、まだ温もりが残っていて、まるですやすやと眠っているかのようだったと言います。
一緒にいた伯父の透さんは戦後、埼玉大学の先生を務めながら、バラの愛好家として新しい品種を開発します。1968年、透さんは初めて開発したバラに、姪を悼んで「のぞみ」と名付けました。「のぞみ」は現在、世界中の人たちに愛されるバラとなっています。
熊本県熊本市に住む小川留里さんは、中学校の社会科の先生です。お子さんが生まれた際の産休・育休の時間をきっかけに、童話を書くようになりました。
あるとき、赴任した学校で元PTA会長の高木寛さんがバラの愛好家だったことから、愛好家同士のつながりを通じて、のぞみちゃんの話を知りました。
「こんな小さい子が、たった1人で引き揚げてきて……本当に切ない」
小川さんは、お祖母様とお母様が引き揚げ者で、さまざまな話を聞いてきました。目立たないように顔をまっ黒く塗ったこと、ソ連兵に女性だとわからないよう髪の毛を刈り上げたことなど、生々しい体験を話してくれたと言います。それだけに、のぞみちゃんのエピソードは自分の母親の姿に重なりました。
小川さんは、生徒たちに任意で「戦争体験を聴く」という夏休みの宿題を出しています。しかし、時代は令和。宿題を提出した生徒は約270人中、わずか3人になってしまいました。
危機感を覚えた矢先、コロナ禍で書き溜めた童話を読み返す機会が生まれた小川さんは、ふと思い立ちました。
「そうだ、のぞみちゃんの話を本にしよう。紙にして残せば、のちの人も読んでくれる」
小川さんは、関係者がすでに亡くなってしまっていたため、のぞみちゃんに関する資料を集めていきますが、なかなか思うように集まりません。それでも多くの引き揚げ体験者の本や資料などで話を丹念に拾いながら、何とかして『バラになったのぞみ』という1冊の絵本に仕上げました。
時は2022年、ソ連を引き継いだロシアが、ウクライナを侵攻し始めていました。
絵本が出版されると、のぞみちゃんの親族の方たちとつながる機会が生まれました。さらにメディアで伝えられたことで、行政も動かしていきます。
今年(2023年)5月、バラの名所・さいたま市の与野公園に、ボランティアの方が寄贈してくれたバラ「のぞみ」の苗が植えられ、名前の由来を記した看板も設置されました。
「21世紀になっても、まだ戦争が起きています。絵本を通じて1人1人が戦争と平和について考えて欲しいです」
のぞみちゃんは現在、さいたま市内のお墓で静かに眠っています。小川さんは、もっともっと生きたかったであろうのぞみちゃんに心を寄せながら、この夏も平和を祈ります。
番組情報
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