国民民主党は「令和の民社党」なのか?

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ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム「報道部畑中デスクの独り言」(第401回)

通常国会が始まりました。去年の衆議院選挙で与党が過半数割れし、永田町の“景色”は一変しましたが、通常国会では新年度予算案などの審議が行われます。少数与党の中で波乱含みの国会となりそうです。

及川敏章

及川敏章さん

さて、今回は「故きを温めて新しきを知る」というべき話です。

昭和から平成にかけて民社党という政党がありました。1955年の「保守合同」以来、自民党は一時期を除いて日本の政界の中心を担っていますが、一方で、昭和から平成初期にかけて対抗勢力として、日本社会党(以下、社会党)が存在していました。しかし、社会党は「右派」と「左派」が対立を繰り返していました。1960年のいわゆる「安保闘争」で対立は決定的となり、右派の議員を中心に結成されたのが民主社会党、後の民社党です。

民社党歴代委員長(民社党史刊行委員会発行「民社党史」から)

民社党歴代委員長(民社党史刊行委員会発行「民社党史」から)

民社党のトップ、初代委員長は西尾末広氏、その後、西村栄一、春日一幸、佐々木良作、塚本三郎、永末英一、大内啓伍、米沢隆の各氏にバトンが渡ります。歴代の中で私が記憶に残っているのは1971年から6年間委員長を務めた春日一幸氏。見た目はまさに硬骨漢という印象がありました。

その民社党について、かつて職員を務めた人物に話を聞くことができました。及川敏章さん。及川さんは民社党のほか、新進党、自由党、民主党、民進党、国民民主党、立憲民主党と7つの政党の職員を歴任し、政治の裏側を知り尽くした人物の1人です。

「人を大事にする政党だった。入った時には男女同一賃金。人間味あふれる政党だった」

「毎晩仲間たちと酒を飲んでいて、ひどい生活をしていた。(毎月)25日に給料をもらっても、1週間しかもたない使い方をして。カップヌードルで次の給料まで我慢しようという……、先輩クラスも相当酒を飲むと論争してしまうのでけんかになってしまう」

人間味、酒と論争……、当時は熱い政党だったようです。議員についても……。

「各自パーソナリティがきつい人が多かった。弱小政党というか、組織もそんなにない所で当選しなければならない。相当な精神力がないと」

骨のある議員も多く、特に入党当時の佐々木良作委員長の“迫力”には驚いたそうです。

及川さんによると、民社党は数々の先進的な政策を打ち出してきたと言います。福祉国家の建設を日本の政党では初めて提唱。また、専守防衛という形を定着させ、1990年のクウェート侵攻を機に勃発した湾岸戦争の際には、90億ドルの追加支援の補正予算を自民党、公明党との連携、いわゆる「自公民路線」で成立にこぎつけました。「自分の国は自分で守る」という安全保障に対する姿勢は、「自民党よりも右寄り」と言われたこともありました。

「中産階級を中心に豊かにしていこうという政策。安保政策も国民の命を守るために必要なこと。常識的な政策をポンポン出していた」(及川さん)

いまも続く北朝鮮による拉致問題、実は国会で初めて取り上げたのも民社党でした。

「昭和53年の夏、数組の若い男女が海岸近くで突然行方不明となり、現在に至るまで何の手がかりもないという事件が発生している。我が国に対する重大な主権侵害であり、人道的にも断じて許されない」

1988年1月、大韓航空機撃墜事件にからむ、当時の塚本三郎委員長の発言です。及川さんがしみじみと語ります。

「初めて代表が本会議場でその質問をする。みんなびっくりした。端緒を開いたのは民社党、全国に知れ渡ったことで感慨はひとしおだが、解決しなければいけない。どんな手を使ってもいいから、糸口をたどってやってほしい」

政権交代を目標に掲げていた民社党ですが、議席は伸び悩み、衆議院で最大39にとどまります。数の力が身に染みたといいます。

「将来政権を取るのは民社党だろうと思って入党した。ところが衆議院選挙では40を越えなかった。限界か、このまま政権とらないで終わってしまうのか……、細川内閣ができて、ああ、こういうやり方もあるのかと」(及川さん)

民社党は1993年に非自民・非共産8会派による細川護熙内閣で政権の一角を占めましたが、1994年12月には新進党に合流して解党に至ります。

「政界再編と新党づくりは民社党の結党の原点。35年にしてようやくその日を迎えた。民社党を発展的に解消し、新進党結成に馳せ参じることになった」(当時の米沢隆委員長 最後の党大会で)

民社党解党から31年となりますが、時代が下った2025年、労働組合の支援、議員数、安全保障・経済対策、その立ち位置など、かつての民社党と重なって見える政党があります。それは国民民主党、実際にそう指摘する報道も出ています。国民民主党の職員も経験した及川さんはどう見ているのでしょうか?

「はっきり言って重ねられないと思う。ただ、共通しているのは国民民主党の比例区の参議院が旧同盟系の3つのグループが入って支えている。遺伝子はあるが……」

国民民主党・玉木雄一郎代表(現在、役職停止中 2024年12月3日撮影)

国民民主党・玉木雄一郎代表(現在、役職停止中 2024年12月3日撮影)

その上で、国民民主党の玉木雄一郎代表(役職停止中)については次のように語ります。

「いままでいろんな政治家と接してきたが、その中でもトップクラスの頭の良さ。政策能力、識見も結構高い。自分に対する自信を圧倒的に持っている。(叩かれやすいのは)全部自分で直接的にやってしまうので、自信過剰に見えるからではないか。決して悪いことではない」

玉木代表本人にも話を聞く機会がありました。

「(民社党があったころは)記憶にない。一時代を築いた民社党は参考になるところはあるが、国民民主党は国民民主党として新たな政党像を提示していきたい」

「昔の政治家は風格があった、私にはないものだ。(民社党とは)結果として似ているというところがあるかも思うが、野党であっても現実的な安全保障政策やエネルギー政策を打ち出しているというのは当然と言えば当然。国内政策で違いはあっても対外的には一枚岩に臨む、国益に照らして正しい選択をする、何でもかんでも反対ではないという意味では、同じような考え方を継承していると思う」

「働く者の立場に立った現実路線の政党という立ち位置はいまも引き継がれている。他党には出せない先手先手で未来を先取りする政策をどんどん出し、実現につなげていくのは国民民主党の役割だ」

民社党と国民民主党、玉木代表の話を聞くと、結果的に目指すところは似ているという感を強くします。玉木代表は民社党の歴史そのものについては、思い入れはないようですが、同郷として初代委員長の西尾末広氏の名前が出てくるあたりは、さすが政治家だと思います。

一方、民社党には少数政党の悩みもあったようです。それは現在の国民民主党にも当てはまることかもしれません。1984年4月の党大会で、当時の佐々木委員長が話していました。

「われわれが選択しうる道は2つあると思う。第一は積極的に連立政権の道を模索すること。この場合、下手をすれば自民党に手を貸すだけの結果となりかねない。慎重の上にも慎重でなければなりますまい。第二の道は改めて社公民的結集を図り、勇敢に自民党政権打倒から新政権樹立への道をばく進すること。この場合の前提条件は社会党の脱皮だ」

今後の国民民主党について、及川さんはこう語ります。

「外部の意見を聞くということ。世の中には知恵を持っている人がいっぱいいる。そういうブレーンを集めてくることも必要。民社党の場合は民主社会主義研究会議があり、著名な学者もいっぱい入ってきた」

「やはり迫力、迫力さえあれば興味がわく。危険性はあるが、自分たちのことを通させるには連立を組んだ方がいいのではないか。どういう形であれ、とにかく実績を挙げて国民生活を少しでも豊かにしてほしい」

国民民主党、その政党の立ち位置については「与党とも、ほかの野党とも等距離である」と玉木代表は話します。ですが、今年夏には参議院選挙があります。その距離は保たれるのか、変化していくのか、歴史は繰り返すのか、あるいは新たな歴史をつくるのか、いわゆる「年収103万円の壁」の議論とともに、政界の行方を占う要素であることは間違いないでしょう。

(了)

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