
8年の修業乗り越え日本の伝統文化を守る、ニューヨーク出身の甲冑師
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早いもので、もうすぐ端午の節句です。小さな男の子がいれば、五月人形の「兜」を飾っているご家庭もあることでしょう。ただ、本物の兜や鎧を見たことがあるという方は、あまり多くないかもしれません。
今回は、この兜や鎧を作る「甲冑師」の男性の方のお話です。

アンドリュー・ドナルド・マンカベリさんと修繕を手掛けている室町時代の兜
それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
埼玉県蕨市、JR京浜東北線・蕨駅西口から伸びる商店街の一角に、「トンカン、トンカン……」と金属の音が鳴り響いています。そこは「三浦按針工房」という工房。ご主人は、甲冑師のアンドリュー・ドナルド・マンカベリさん、50歳です。
アンドリューさんは、アメリカ・ニューヨーク州の出身。大都会のニューヨーク市ではなく、北の農村のほうで育ちました。兜や鎧に興味を持ったのは、小さい頃に観た日本の侍が活躍するドラマがきっかけです。あの三船敏郎さんや島田陽子さんが出演した、1980年の「将軍 SHOGUN」でした。
さらに80年代半ば、アカデミー賞に黒澤明監督の「乱」がノミネートされると、アンドリューさんは近くの図書館へ行き、「七人の侍」を皮切りに、VHSのビデオになった黒澤作品を次から次へと借りて、食い入るように観ていきました。そんなとき、お父様に連れられて行った骨董市で、日本の兜や鎧を実際に目にします。
「どうして日本の鎧はこんなに動くんだ! どうやったら漆だけでこんな光るんだ!」
驚いたアンドリューさんは、日本へ行きたい思いがますます募っていきます。そこで、大学で考古学を学ぶと、日本の自治体が様々な外国人を招いている「JETプログラム」に応募。山梨県丹波山村で採用が決まり、念願の来日が叶いました。
日本にやって来たアンドリューさんは、平日は学校で英語の授業のアシスタントなどを務めながら、週末になると、全国各地の刀剣会や骨董市に顔を出していきました。2000年代に入ると日本の伝統文化の保存に関する文部科学省の研究員として再来日。その研究のなかでアンドリューさんは、ある職人さんと出逢うことになります。
出逢ったのは、甲冑師の重鎮、三浦公法さんでした。甲冑師とは、新しい兜や鎧を作るだけでなく、昔の甲冑の修理や復元する仕事。日本では武士の時代から、長きにわたって受け継がれてきた技です。アンドリューさんは研究のために、毎日のように三浦さんのもとへ通っていました。三浦さんは、アンドリューさんのニックネーム、「アンディ」を呼ぶことができず、しばしば「按針(あんじん)さん、按針さん」と話しかけてきました。
「按針さん、君の甲冑への思いは本物だよ。なあ、甲冑を作ってみないか」
アンドリューさんは驚きましたが、またとない誘いと感じて、弟子入りを決断。そして2008年から、厳しい修業に臨みました。甲冑師の仕事は、鉄や銅の金属加工だけではありません。皮を縫い合わせるために裁縫の技術や、繊細な絹織物にも通じる必要があります。さらに金箔などを施す場合には、金箔職人さんと同じレベルの技量が求められます。その技を、師匠から見よう見まねで憶えていかなくてはなりません。
なかでもアンドリューさんが苦しんだのは、「漆」です。甲冑師の道に入ってからずっと、肌のかぶれに悩まされました。でも、昔見た、あの美しい輝きを生み出す漆だと思い、必死で乗り越えていきます。すると、2年経った頃から、まるで免疫が出来たかのようにかぶれが治まってきました。
そして、弟子入りからおよそ8年を経たある日、師匠から呼び出されると、手渡された紙には、こう書かれていました。
「アンドリュー氏を、甲冑師として認める」
弟子入り以来、一度も褒められたことがなかったアンドリューさんは、師匠自ら筆でしたためた証書を手渡して下さったことに、とてもビックリしました。そして、三浦さんの弟子であるアンディさんの工房ということで、「三浦按針工房」という屋号を名乗ることを認めてくれました。
いま、アンドリューさんのもとでは、フランス・ドイツなど、海外からのお弟子さんが甲冑師としての厳しい修業に取り組んでいます。残念ながら、日本人の若い弟子は、モノになる前に辞めてしまうことも多いそうです。
「日本の伝統文化の保存に近道はありません。ただ、日本の優れた技で作られたものは、海外へ行ってもすぐに日本製と分かります。この宝といってもいい技を、次の世代に繋ぎたいんです」
三浦按針をモチーフとしたドラマをきっかけに、甲冑師「三浦按針」として人生の道を歩むことになったアンドリュー・ドナルド・マンカベリさん。コスパ、タイパでは測れない、「日本の基本」を守るために、今日も技を磨きます。
https://www.instagram.com/miuraanjinsamurai/