
暦の上では夏を迎えて、ビールが恋しい季節が近づいてきました。大型連休中、なかには、列車に揺られながら、缶ビール片手に「プシュ!」とやりながら、旅を楽しんだ方もいらっしゃるかもしれません。今回は、ある鉄道の無人駅で、クラフトビールを作っている男性のお話です。

山口厳雄さん
それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
日本海の風光明媚な車窓と、石州瓦の赤茶色の屋根が連なる集落が繰り返される、島根県の西部・石見地方のJR山陰本線。そのなかに、波に子供の子と書いて、「波子(はし)」と読む、小さな無人駅があります。東京から新幹線と特急を乗り継いで約7時間、日本有数の「東京から遠い駅」です。

波子駅
短い2両編成の特急「スーパーおき」号から波子駅のプラットホームに降り立ちますと、芳醇な甘い香りが漂ってきます。良い匂いのもとは、なんと波子駅の駅舎からでした。実は波子駅の駅舎は、「石見麦酒」をはじめとしたお酒の醸造所になっているのです。
このお酒を作っているのは、広島県出身の山口厳雄さん・48歳。高校時代、得意科目が化学と生物だったことから、信州の大学で「発酵」を学びます。学びを究めるうちに、山口さんはふと、こんなことを思い始めました。
『一度しかない人生、ずっと酒に囲まれて暮らしたら、どんなに楽しいだろうか』

特急「スーパーおき」、山陰本線・三保三隅~折居間
山口さんは、日本酒のメーカー、ビール会社をはじめ、ありとあらゆるお酒の会社への就職を目指しますが、時は就職氷河期、全く相手にしてもらえません。縁あって、信州味噌の会社に就職しますが、今度はご実家から戻るように言われ、後ろ髪を引かれながら広島に帰って、家業の婚礼家具の会社を継ぐことになりました。
とはいえ、このご時世、婚礼家具には、ほぼニーズがありません。家具だけでなく、様々な木工品を製作することで、なんとか会社を立て直していきます。さらに新規事業も興していかないと、会社が立ち行かなくなるのは目に見えていました。次第に山口さんの心のなかに、ずっと抑えていた気持ちがあふれ出してきました。
『やっぱり、酒を造りたい!』
山口さんは、新規参入しやすい「クラフトビール」の世界に飛び込むことに決めたのです。

山口厳雄さん
家具メーカーの新規事業として、ビールを造り始めることになった山口さんですが、限りある資金や人材ゆえに、出来るだけ手間を省いて、ビールを造れないかと考えます。実は、醸造の仕事のおよそ半分は、タンクや配管の清掃に追われてしまうのが常。
多くの水や薬品を使って、熱処理などのエネルギーもたくさん消費していました。同じようにクラフトビールに携わっている人たちと酒を酌み交わしていると、ふと、信州で味噌のメーカーに勤めていた時のことを思い出しました。
『味噌作りでも、家庭で作る漬物でも、ポリ袋のなかでしっかり発酵している。ビールだって大きなタンクを使わなくても、ポリ袋と家庭用冷凍庫で出来るはずだ!しかも、ポリ袋を1度の使い切りにすれば、タンクを洗う手間が省けるのでは?』
山口さんはそう確信しますが、あくまでも、それは理論上のお話。ビール造りは免許制のため、許可が下りてからでないと、実際に作ることはできません。酒どころもある、需要の大きな街で製造を試みますが、いままでに例のない取り組みに関係者の方からは、「もっと真面目に酒を造れ!」と一蹴されてしまいます。

冷蔵庫に特製のポリ袋をセッティングする様子
そんな山口さんの発想を面白がってくれたのが、島根県江津市でした。市のビジネスコンテストに応募すると、当時は江津市に酒蔵が無かったことも手伝って、山口さんのビール造りを応援してくれることになったんですね。晴れて酒造りの免許を取得、出来たビールに、地元の方が歓声を上げました。
「おいしい!ポリ袋でこんなクオリティの高いビールが出来ちゃうんだ!」
そして2016年4月、「石見式醸造方式」と命名された新たな醸造法で出来たビールは、「石見麦酒」と銘打たれ、ブルワリーのオープンにこぎ着けます。久しぶりに江津市で生まれたお酒に、地元のスーパーや居酒屋の皆さんは喜んで、「ぜひ、応援させてほしい!」と商品を置いてくれました。

石見麦酒のセット
いま、「石見麦酒」は最小50リットル、およそ130本の缶ビールから作ることが出来る、“小回りの利く”ビールとして、様々な味わいの商品を送り出しています。2024年にはテレビ番組の企画をきっかけに、波子駅の駅舎に醸造所を移転し、去年から今年にかけては、朝ドラの影響で「しじみ」を使ったビールが人気を集めました。
山口さんは、ここまでの10年について、こう語ります。
「この10年、ずっと面白いことが続いています。これからは海外にも進出したいですし、全国の無人駅に、それぞれの地域らしい醸造所が増えていったら面白いですね」
時折、ディーゼルカーのエンジンの唸りと列車がポイントを通過する音が響く無人駅は、今日もクラフトビールの甘い香りに包まれています。





