
骨折をしながら、銀メダル2つを獲得したパラアルペンスキーの村岡桃佳選手
骨折をしながら獲得した 冬季パラリンピック日本人最多記録となる通算11個目のメダル
2026年3月6日から15日にかけて行われたミラノ・コルティナ2026冬季パラリンピック(以降ミラノ・コルティナ2026パラリンピック)。
そのミラノ・コルティナ2026パラリンピックに、パラアルペンスキーの日本代表として出場し、骨折の痛みに耐えながらメダル2つを獲得。冬季パラリンピックでの個人メダル獲得数を通算11個に伸ばし、日本勢最多となったのが村岡桃佳選手です。
そんな村岡選手に、ミラノ・コルティナ2026パラリンピック出場の裏側、直前に負ったケガの話、次のパラリンピックへの想いなど、伺う事が出来ました。
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Q:ミラノ・コルティナパラリンピックでは、4種目に出場、銀メダル2つという結果でしたが、この結果をどう捉えていますか。
村岡「今回、(大回転で)3連覇を目指していたので〈本当に悔しい結果だな〉というのが、率直な気持ちです。(パラリンクック前の)11月に怪我をして、沢山の方々が、私の雪上復帰、パラリンピック出場に向けて協力・サポートをしてくれました。でも本当に辛すぎて、怪我をしてからパラリンピックまでの期間、(手術をした所が)もう痛いし、とにかく痛いし(笑)。」
Q:今回の2つの銀メダル獲得で、村岡選手の冬季パラリンピックでのメダル獲得数が、通算11個、日本勢単独最多の数になりました。そこは意識されていましたか。
村岡「何も考えていませんでした(笑)というか、大回転のレース・表彰式が終わった時のインタビューで『大日方さんの記録を越して、最多になりましたね』と言われたとき『あ、そうか』って思いました。そこまで何も考えてなかったです(笑)。
Q:それまでの記録(パラリンピックでの通算10個のメダル)保持者・大日方邦子さんは、今回、日本選手団団長として、現場にいたと思いますが。
村岡「はい。現地にも来てくださっていて、メダルを獲って一緒に並んだ時だったり、レースを終わってからも話はしたましたが、レース前は『メダル獲って(記録を)抜かしてね』みたいな話は無かったです。」
Q:銀メダルを獲得した大回転は、パラリンピック3連覇がかかっていましたが、思うように滑れましたか。
村岡「う〜ん、まあ滑れは・・・しました。ただ私の一番調子がいいというか、万全な時の滑りではなくて、その時に出来る滑りで、フルアタックは出来たかなと思っています。
今回、金メダルを獲ったドイツのアナレナ選手(記録1:15.52)も凄くいい滑りをしていたので、ま、自分のできる事(記録1:16.26)はやったかなという気持ちです。」
Q:怪我がなければ、金メダルを獲れたかなという思いはありましたか。
村岡「正直、無くはないですね。もちろん、たらればの話でしかないのですが、今回の滑りだったり、各セクションでのタイム差などを見た時に、明らかに今シーズンの練習不足というか、入院をしていたからしょうがないんですけど、練習の足りていない部分でのタイム差が大きかったりとか。あとは怪我の痛みだったり、(怪我からくる)フィーリングの違いで、ちょっとした滑りの変化というのが、後から映像で見返しても結構あったりするので、〈それがなければ・・・いけたかも知れないな〉という思いはありますけど、そんな事、たらればでしかないので、もう結果として〈今回は金メダルが獲れなかった、銀メダルだった。〉という事ですね。」
●村岡桃佳選手 プロフィール
1997年3月3日生まれの29歳。4歳の時、病気の影響で下半身に麻痺が出て車椅子生活に。いろいろなパラスポーツに挑戦する中、小学3年生でチェアスキーを始め、中学生の時に、チェアスキーのトップアスリート・森井大輝選手らの姿に憧れ、本格的にパラアルペンスキーの世界へ。
高校1年でジュニアの強化選手に選出されると、2014年、17歳の時にソチ2014冬季パラリンピックに出場、女子大回転(座位)で5位入賞。
平昌2018冬季パラリンピックでは、日本選手団の旗手を務め、出場5種目で表彰台に上がり、日本選手最多の1大会5個のメダルを獲得。2019年春からは、パラ陸上競技(短距離)にも挑戦すると、東京2020夏季パラリンピックに100mの日本代表として出場、6位入賞を果たす。
続いて行われた北京2022冬季パラリンピックには、日本選手団の主将として出場。滑降・スーパー大回転・大回転で金メダル、スーパー複合で銀メダルのメダル4個を獲得。パラリンピックでの通算獲得メダル数を9とし、大日方邦子さんの記録・日本人がパラリンピックで獲得した個人のメダル総数10個に迫る。
多くのメダル獲得を期待されたミラノ・コルティナ2026冬季パラリンピックでは、直前に大怪我を負い、完治しないまま出場したが、スーパー大回転と大回転で銀メダルを獲得。冬季パラリンピックでの通算メダル獲得数を11に伸ばし、日本人最多記録を更新した。

ミラノ・コルティナ2026パラリンピック前に行われた取材会で、にこやかに質問に答えていた村岡桃佳選手
ピンチを乗り切った原動力は、『やるしかない』という気持ち
Q:冬季パラリンピックにスキーで出場して、2年後の夏季パラリンピックは陸上で出場する。陸上からスキーへ戻る時、どんな難しさがありましたか。
村岡「平昌2018冬季パラリンピックの後、東京2020夏季パラリンピックを目指して陸上競技に取り組んで、その後、北京2022冬季パラリンピックという流れは、私の中では一括りという感じで捉えていたので、そこは陸上も、スキーも、全部メダルを狙っていくと言う気持ちでした。
東京2020夏季オリンピック・パラリンピックが延期になり、北京2022冬季パラリンピックまでの準備時間が短くなりましたが、北京2022冬季パラリンピックでは、金メダル3個、銀メダル1個が獲れて凄く安心しましたし、諦めず本当にチャレンジを続けてよかったなと思いました。
長い期間、スキーから離れていてまた戻るというのは、東京から北京でも経験しているので、そこまで抵抗はありませんでしたが、スキーに乗る感覚が分からなくて『ターンってどうやってやるんだっけ?』とか(笑)。雪上に戻って、しばらくは違和感がありました。
Q:ミラノ・コルティナ2026冬季パラリンピックに向けた復帰戦は、2024年12月のワールドカップ開幕戦・オーストリアでした。いきなりスーパー大回転で優勝されましたが、もう完全に感覚を取り戻していたのですか。
村岡「いや、全く取り戻せていなくて(笑)。しかもスーパー大回転は、高速系の種目で、トレーニング環境を確保するのが難しいんです。だからレースまでに、トレーニング出来たんだか、出来ていないんだかという感じで・・・。スキー板に乗れたのも、3日あるかないか位だったので、もう練習の気持ちでしたね、その時は」
Q:それでも優勝してしまう所は流石だなと思いますが、怪我をしたのはその後ですね。
村岡「そうですね。実は昨年(2025年)の4月と11月の2回、怪我をしているんです。4月の怪我は、パラリンピックまで1年位あるし、シーズンの終わりでもあったので、『まー大丈夫だろう』という気持ちがあったのですが、11月の怪我は〈骨折〉だったので、治癒までに時間がかかりますし、その・・・どうしようと。
急いで帰国をして、手術・治療という感じで、雪上に復帰できたのは、パラリンピックに行く約3週間前だったんです。だからパラリンピックに行くまでに・・・まともにとは言えないですけど、トレーニングが出来たのは2週間なかった位。現地に着いて、調整という形でスキーに乗ったのも1週間ない位で、体のコンディションも・・・コンディションどころではないような状況でした。
今思うと11月に怪我をして、約2ヶ月入院、その後リハビリだったので、本当に体力も落ちていて、今となっては、あのハードなパラリンピックの期間を、よくあの体力で、あのコンディションで乗り切ったな、と思いますね(笑)」
Q:そのピンチを乗り切った原動力はなんですか。
村岡「やっぱり『やるしかない』という気持ちですかね。私、追い込まれると強いタイプのようで(笑)」
人生初めての手術が、今回の骨折。私は諦めてしまいたかったのに、周りの人達は誰も諦めてくれなかった
Q:11月の怪我は骨折という事ですが、どこを骨折したのですか。
村岡「手術をしたのは、左の鎖骨です。鎖骨をプレートで固定して、あと左肩の腱板も損傷していましたが、こちらは手術していません。
鎖骨は、体の骨折の中でも痛い所の上位に入るらしいです。手術した先生には『鎖骨の骨折だから、手術をして、通常2、3日、長くても5日位で退院できるかな』と言われたのですが、『先生ちょっと待ってくださいと。私、車いすなので、生活の全てが手ですよって。朝起きる時に体を起こしたり、車いすを動かす時も、手で支えなければいけないので、鎖骨にもろに負荷がかかるんですよ!』と訴えて、ある程度の生活が出来るようになるまでの入院になりました。その位、車いすユーザーにとって鎖骨骨折は、日常生活への支障しかないんです。だから、競技なんて。
あと、実は私、これまで手術をした事がなかったんです。車いすに乗る事になったのも、病気が原因だったので、今まで手術は一度もした事が無くて、人生初めての手術が11月の怪我だったんです。
『パラリンピックに間に合わせる為には、手術をした方がいいよ』って言われて、手術をしたのですが、したらしたでめっちゃ痛いし、リハビリは辛いし、全然、骨くっつかないし(笑)。
パラリンピックは3月ですけど、もうちょっと早い段階から雪上復帰はしなきゃいけないわけで、こんな状態で本当に間に合うのか?!って。ほんとリハビリ中も諦めたかけた時がありました。『もう辞ーめた。』ってやりたかったんです(笑)」
Q:リハビリは本当に辛かったんですね。
「私、〈心の底から弱音を吐く事〉はあまりなかったんですけど、本当に辛すぎて、家族に『本当に、本当に無理だから、お願いだから、週末や休みの時に病院にお見舞いに来て』って家族に頼んだり、もう誰か来てくれないと・・・と言う位、もう参ってしまって。
そんな状況だから、もうスキーの事も考えたくないし、スキー関係者から来る連絡も辛かったんです。『もうお願いだから、私のことは放っておいて』って(笑)。」
Q:とはいっても、パラリンピックは迫ってくると。
村岡「そうです。私は本当にパラリンピック出場を諦めてしまいたかったんですが、私の周りの人達が、誰も諦めてくれなかったんですよ、いい意味で(笑)。
周りの人達は、これまでずっと私のサポートをし続けてきてくれたので、その中で私が『やっぱり無理です』って言う事はできないなと思って、なんとか(痛みとリハビリに)耐えに耐えて、漕ぎ着けたパラリンピックという形でした。
そう言う意味では、今回、金メダルは獲れませんでしたが、銀メダル2個を持って帰って来れたのは、本当に良かったというか、サポートをして下さった方々に対して、恩返しができた、周りの人達のおかげで獲らせてもらったメダルだったな、とは思っています。」

スキーを始めるきっかけとなった森井大輝選手と、今回使用したスキーの改良に携わったトヨタ自動車のスタッフと共に
オリンピックを観ていて、スポーツの持つ可能性、選手が与えてくれる希望を感じた。
Q:入院・リハビリの時期は、ミラノ・コルティナ2026冬季オリンピック(2月6日〜2月22日)が行われていたと思いますが、ご覧になりましたか。
村岡「そうですね。普段、パラリンピックの前というのは、海外で試合だったり、合宿などトレーニングをしているので、ちゃんとオリンピックを観戦する事は無いんですけど、今回は、リハビリとかで日本にいたので、テレビで観戦していました。もうテレビにかじり付くように見ていました(笑)。
Q:アスリートが見るオリンピックというのは、どういう感じなんですか。
村岡「オリンピックを見て『スポーツって凄いな。スポーツの持つ可能性だったり、選手が与えてくれる希望だったり、可能性だったり、本当に凄いな』と、私自身も改めて感じました。だからオリンピック選手と同じように、無我夢中で競技をしている私を見て、何か勇気だったり、希望だったりを感じてくれる人がいたなら、それは凄く光栄ですし、嬉しい事だなと思いました。
でもその気持ちの裏で『この1ヶ月後に、私もここ(ミラノ・コルティナ)に行くのか』と思ったら気が重く・・・・。それさえなければ、すごく楽しい2月を過ごしたんですけど(笑)。」
Q:オリンピックで感銘を受けた競技はありますか。
村岡「それこそ、スケート系です。スピードスケートだったり、モーグルだったり。同じ会社(トヨタ自動車・堀島行真選手)の選手が出ていたのもありますけど、一番、モーグルが熱かったですね、私の中で。見ながら叫びましたから(笑)。応援する側の気持ちもわかりました。苦しかったですけど、楽しかったですね。」
Q:パラリンピックでは、村岡選手の地元・埼玉県深谷市でもパブリックビューイングが行われ、沢山の人が集まって応援してくれたそうですよ。
村岡「そうですね。私も家族から聞きました。やっぱり凄くありがたい事だなと思いましたし、『応援をしてもらえるって幸せな事だな』と、改めて感じました。」
Q:ちなみに、今回、名古屋でアジア大会・アジアパラ大会が行われます。同じトヨタグループに所属するアスリートも出場しますが、応援には行かれるんですか
村岡「そうですね、色々なお話を頂いているのですが、あの怪我の手術や入院、リハビリもあるので予定が読めなくて。でもベッドの上やリハビリ先で応援します。」
・第5回アジアパラ競技大会(2026/愛知・名古屋)
https://www.asianparagames-2026.org/ja/
Q:骨折の痛みは、パラリンピックの期間中もあったんですね。
村岡「もう全然痛かったです。くっ付いていない骨を、プレートで止めて、くっ付いている風に見せているだけでした(笑)。パラリンピックが終わって、1、2ヶ月後に、病院でレントゲンを撮った時、先生に『この状態でパラリンピックに出られたらよかったんだけどね』と言われたので『私もそう思います』と返しました(笑)。」
Q:痛み止めの薬なども大変ですよね、ドーピングにも関係してくるので。
村岡「そうですね。痛み止めもそうだし、注射も麻酔とかが入っていて、麻痺させるので、そうすると滑っている時の感覚、力が入りづらくて思うように動かないとか、今度はフィーリングの方に影響が出てくるんです。
だから、我慢ができるのだったら、痛み止めも打たず、飲まず、なんとか耐えようと。まあ、滑っている時は、アドレナリンが出ているので、痛みは感じないのですが、終わってから『やばい、痛い』って。だから、レースが終わってからの方が地獄でしたね(笑)。」

雪山で練習をする村岡選手
大回転での銀メダル獲得は「ひとまず手ぶらで帰らなくてすむ」という安心感がありました
Q:必ずしも万全ではない体調で臨んだパラリンピックですが、エントリーしたのが5種目で、最初のダウンヒルは欠場されました。これはどういった決断だったのですか。
村岡「これは、このコースが本当に難しいコースで、実は昨年4月に怪我をした場所というのが、このミラノ・コルティナ2026パラリンピックのコースでした。
トレーニング中だったんですが、ヘリで運ばれまして。正直、このコースに対する恐怖心というか、トラウマが凄くありました。
だから、11月にケガをして、雪上に復帰できたのが、パラリンピックの3週間位前。一番かけていた種目・3連覇を狙っていた大回転までは〈絶対転べない、怪我もできない、何かをやらかすわけにはいけない〉という事で(笑)、リスクを回避する為にも欠場しました。」
Q:2日置いて行われたスーパー大回転が、最初の出場種目となったわけですが、ここで〈銀メダル〉を獲って、これが日本勢最初のメダルにもなった訳ですが、〈転べない〉というプレッシャーの中、どういう気持ちで臨んだのですか。
村岡「スーパー大回転も、出場するか、欠場するか、揺れていて。実はスーパー大回転の後に、複合(高速系と技術系を1本ずつ滑り、その合計タイムで争う競技)があって、スーパー大回転に出るのであれば、複合も出るんけど、スーパー大回転単独の種目を欠場するのであれば複合も欠場する、という話だったんです。
スーパー大回転を欠場した場合、私のパラリンピックの初戦が、一番かけていた種目〈大回転〉になる。でも、シーズン開幕直前に怪我をして、これがシーズンの初戦。レース感覚も無かったですし、パラリンピックという事で、色々な緊張感・不安・プレッシャーなどが倍に増してのしかかってくる、そしてトラウマのあるコースという事で、流石に、ぶっつけ本番で大回転は避けたいな・・・と。
だから、まずは肩慣らしというか、レース感覚を取り戻す為に、スーパー大回転に出場しました。」
Q:そんな肩慣らしで、〈銀メダル〉を獲得した訳ですが、このメダル獲得はどういう風に受け取りましたか。「金も獲れたな」という感じなのか、「銀なら上出来」という感じだったのか。
村岡「スーパー大回転に関しては、今言った通り、レースに対しての肩慣らし的な、一つ一つ考えながら滑っていたので、そう言った意味では、〈銀メダル〉はラッキーというか、思いがけず獲れた、という感じでした。
過去の2大会でメダルを獲得していたので、今回のパラリンピックも、やっぱり手ぶらでは帰れないというか・・・怪我をしていましたが、そんな思いはあったので、ここでの〈銀メダル〉獲得は、『ひとまず手ぶらで帰らなくてすむ』という安心感が凄くありました(笑)。
だからその後の大回転に関しては、〈メダルが獲れるか、獲れないか〉という事ではなくて、〈ただ、ただ金メダルを目指す!〉という一つ吹っ切れた気持ちで滑れました。スーパー大回転はそんな感じのメダル獲得でしたね。」
Q:そして翌日には、アルペン複合で5位入賞。大回転の前に、これで手応えは掴んだと感じましたか。
村岡「やっぱり、きちんと滑り切れた事で、一つの自信というか、安心材料にもなりました。回転という種目も、最終日に行われるので、そこに向けての準備というか、心づもりも出来たので、よかったなと思います。」
次のフランスアルプス2030パラリンピックに向けて
Q:ちょっと気が早いですが、次はフランスアルプス2030パラリンピックがあります。
村岡「今までは、何も考えずに突っ走ってきましたが、いよいよ30歳に入ってくるので、やっぱり・・女性にとっては、20代から30代、競技をする上では大きい変化だったりもすると思うので、そう言ったところは、今までのように何も考えずに突っ走らないで、キチンとコントロールもしていかなきゃいけないなと思っています。本当に、無我夢中で走っただけでは、体もついていかなくなるし、むしろ体は、どんどん壊れていく一方だと思うので(笑)。
あと、アルペンスキーという競技の特性として、やっぱり怪我はつきものであったりもするので、そこは仕方がないかなと。日々のケアだったり、コントロールできる部分は、しっかりとコントロールをしながら、競技と向き合っていかなければいけないなとは、改めて感じているところです。
Q:技術という面では、年齢を重ねた事で、滑りの技術もアップしたりしていると思うのですが。
村岡「そうですね。上がっているなと言うのは感じます。ただ上がり方が、昔みたいにいきなりグーンと上がる訳でもなく、緩やかではあるんですけど(笑)、いまでも少しづつ成長しているなと感じますね。道具や色々なものの技術の進歩と共に、自分自身のスキルも上がっていったらいいなとは思います。」
Q:今後の競技人生については。
村岡「今回、パラリンピックに出て、自分も競技歴が長くなってきたなと感じたんです。年齢が上がってきたと言う事もありますが、若い世代の子たちがいっぱい出てきて『こんな子もいるんだ』って言うのを知ったり、逆に、会場で海外の選手から『あなた桃佳だよね』と声をかけられたり、それはそれで『知ってくれているんだ』と嬉しかったです。
全体の競技レベルも上がってきて、そこに凄くワクワクしましたし、自分も負けていられないな、という気持ちにはなったので、そうですね、今の目標としては『4年後に、今度こそ金メダルを獲得できるように』、また次のパラリンピックに向けて4年間をスタートしていきたいなと思っています。」
と、ミラノ・コルティナ2026パラリンピック。そして、フランスアルプス2030パラリンピック・これからの競技人生に向けて話を聞かせてくれました。
村岡桃佳選手(トヨタ自動車) https://toyotatimes-sports.toyota/athletes/athlete-26/
トヨタイムズスポーツ https://toyotatimes-sports.toyota/





