今や島の「名物おばちゃん」!50代で移住した父島で中華料理店を営む女性 【10時のグッとストーリー】

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番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【10時のグッとストーリー】

今日は、50代になってから小笠原に移住、ご主人と中華料理店を始め、今や島に欠かせない存在になった、ある女性のストーリーです。

東京の竹芝桟橋から南におよそ1,000キロ、太平洋に浮かぶ、小笠原諸島の父島(ちちじま)。
人口わずか2千人ほどのこの島へ向かう船は、週に1便しかなく、島を訪れた観光客は、次の船が来るまで連泊するしかありません。飲食店も30軒ほどしかない父島で、唯一本格的な中華料理を提供しているお店があります。「海」に「遊ぶ」と書いて「海遊(かいゆう)」。
40席以上ある「海遊」は、祝い事や宴会にも使えるので、島にとって貴重な存在です。

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「うちの看板メニューは、特製のタンメンです。父島に里帰りするたびに、必ず食べに来るお客さんもいるんですよ」と話すのは、22年前、ご主人とお店を始めた伊奈京子(いな・きょうこ)さん・74歳。
朝から晩までお店に出て働き、お客さんに「おばちゃん、若いね〜」と言われるそうで、次男の徹人(てつと)さんと、忙しいときは二人のお孫さんにも手伝ってもらい、家族でお店を切り盛りしています。

今や、島の「名物おばちゃん」になっている京子さん、実は父島の出身ではなく、生まれは東京・浅草。
戦後は文京区に移り、後楽園球場のそばで育ちました。その後、勤め先で知り合ったご主人の寛(ひろし)さんと結婚。この寛さんの故郷が父島でした。
戦時中、4歳のときに、強制疎開のため父島を出ることになった寛さん。伊奈さん夫妻は、神奈川の葉山町(はやままち)で暮らし、4人の子をもうけ、幸せな生活を送っていましたが、ある日、寛さんがこんなことを言い出しました。

「おい、島へ帰るぞ!」

戦後、アメリカの占領下にあった小笠原諸島が日本に返還されたのに伴い、先祖代々住んでいた土地が寛さんのもとに戻ってくることになり、父島への思いが甦ったのです。

「本当に寝耳に水で、ビックリしましたよ。あの人は昔から、何の相談もなしに全部自分で決めてくるんです。最初は私、『絶対行かない』って言いました」

父島は、寛さんにとっては故郷でも、京子さんにとっては縁もゆかりもない土地です。しかし、子供たちは移住に賛成。京子さんも渋々、父島へ行くことになりました。

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移住前に、寛さんはタンメン発祥の店としても知られる、横浜伊勢佐木町の『横濱 一品香』のオーナーと親しくなり、「父島で中華の店を開こう」と決意。そのオーナーの店に家族で見習いに入って基礎を学び、1994年、「海遊」をオープンしました。
最初の頃は、珍しさもあってお客さんの出足も上々でしたが、一部で「あんまり美味しくないね」という噂が立ち、不安になったこともあった京子さん。しかし、船員を辞めて一緒に移住した次男・徹人(てつと)さんは、キッパリこう言いました。

「そんな噂が立つのは、一時(いっとき)のことだよ。焦らず頑張れば分かってもらえる」。

徹人さんの言う通り、しばらくすると、逆に口コミで「美味しい」と評判になり、「海遊」は今や島になくてはならない存在になりました。

しかしその道のりは、決して順風満帆だったわけではありません。島に移ってから6年後、寛さんが、食道がんで亡くなったのです。病院で診てもらったときは、もう手遅れでした。
夫と一緒に作った店を守っていこうと、慣れない土地で懸命に働き、今では、島民のほとんどと顔見知りになった京子さん。観光客に島の名所を案内するなど、すっかり「島の人」になり、なぜ寛さんが島に帰りたがったのか、その気持ちも、今ではよく分かります。

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「空気もおいしいし、海もきれいだし、お客さんに『若いね』と言われるのも、この自然のおかげです。
ここにずっと住もうと思っていますし、父島へ連れてきてくれた夫に、今は感謝ですね」

八木亜希子,LOVE&MELODY

番組情報

LOVE & MELODY

毎週土曜日 8:30~10:50

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