百恵さんと出逢えたのは作詞家冥利に尽きますね。阿木耀子『横須賀ストーリー』誕生秘話【10時のグッとストーリー】

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番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【10時のグッとストーリー】

今日は、今週の企画「この歌詞の、ココが神ってる」にちなんで、リクエストの多かった山口百恵さんの『横須賀ストーリー』の歌詞にまつわるグッとストーリーを、作詞家の阿木燿子(あき・ようこ)さんに伺いました。

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(左)作詞家 阿木燿子さん / (右)『横須賀ストーリー』ジャケット写真

1975年に発売された、宇崎竜童さん率いるダウン・タウン・ブギウギ・バンドの『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』。この曲で作詞家デビューを飾ったのが、宇崎さんの妻・阿木燿子さんです。
阿木さんは横浜出身。その後、実家が移転したのが横須賀でしたが、自分にゆかりのある二つの街を舞台に、夫のために作詞したこの曲は、いきなり大ヒット。
「アンタ、あの娘(こ)の何なのさ」というフレーズは、当時の流行語にもなりました。

夫婦による作詞・作曲で一躍注目を浴びた阿木・宇崎コンビでしたが、翌76年、二人のもとに突然、こんな依頼が舞い込みました。「山口百恵に、曲を書いてもらえませんか?」しかも「百恵さん本人の希望らしい」という噂も耳に入ってきました。

阿木さんは「まだ10代のトップアイドルが、私たちのような駆け出しのコンビに、自分で曲を書いてと言ってくるわけがない。そんなことはあり得ないと、まったく信じていませんでした」。
アイドルは、事務所の言いなりになるのが普通。自己主張するなんてとんでもなかった時代です。

阿木さん・宇崎さんへの最初の発注は「アルバム用に、3曲ほど書いてほしい」でした。
いったい何を書けばいいのか、百恵さんとは年齢も少し離れているので、とても迷ったという阿木さん。ふと気付いたのが、百恵さんが「横須賀出身」ということです。自分の実家も横須賀。
共通点を見付け、曲の舞台にしようと決めました。横須賀は、横浜と同じ港町ですが、両方の街を知る阿木さんは、大きな違いがあると言います。それは…「陰(かげ)」。

「横浜は明るい港町ですけど、横須賀は軍港でもあり、軍艦も停泊していて、同じ港町なのに、どこか陰があるんです」
そんな横須賀のイメージが、同じく「陰がある」と言われた百恵さんと、ぴったり重なりました。

さっそく横須賀を舞台に、ある男女のストーリーを描いていった阿木さん。逢うたびに、いつも煮え切らない態度を取る男性。「私って、都合のいい女なのかな…」だけど、面と向かっては聞けない。そんな辛い恋をしている女性の心のつぶやきが、サビのこの歌詞になりました。

「これっきり これっきり もう これっきりですか」

作曲の宇崎さんと相談して「このサビ、インパクトがあるから、曲の頭に持ってこよう」ということになり、『横須賀ストーリー』は完成。ところが、収録されるはずだったアルバムにこの曲だけが、なぜか入っていませんでした。
「ああ、没になったんだな」と思っていたある日、思わぬ報せが届きます。なんと新曲として、シングルで発売するというのです。

百恵さんの歌う『横須賀ストーリー』は、阿木さんの想像以上に大人っぽい仕上がりになり、チャート1位に輝いただけでなく、百恵さんをアイドルから大人の歌手へと導く一曲になりました。
「百恵さんは、こちらが1書いたことを、10にも100にも拡げてくれる。どんな女性も演じられますし、歌のうまい歌手はたくさんいますが、こんなに表現力のある歌手にはめったにお目に掛からないです。百恵さんと出逢えたのは、作詞家冥利に尽きますね」

数年前、阿木さんと宇崎さんは、百恵さんと久しぶりに再会。一緒に食事をしました。
そこで、ずっと聞けなかったことを聞いてみたそうです。「私たちに曲を依頼したのは、百恵さん自身だ、っていう噂がありますけど、本当なんですか?」
…百恵さんの答は「はい、そうです」。

改めて、それが事実だったことに驚いたという阿木さん。
「あの時代に、アイドルでありながら、事務所に自分の意見を言えたというのがすごい。結婚・引退もそうですけど、百恵さんは自分の運命を、自分で切り拓いていったんですね」

百恵さんにとっても、阿木さんにとっても、転機になったのはこのフレーズだったのです。

「これっきり これっきり もう これっきりですか」

八木亜希子,LOVE&MELODY

番組情報

LOVE & MELODY

毎週土曜日 8:30~10:50

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