「ザ・ボイス そこまで言うか!」では、3/6(月)~9(木)の放送にて、東日本大震災の被災地にて、被災者の方のインタビューを放送しています。3/6(月)放送分を掲載します。
福島県双葉郡楢葉町からレポートします。楢葉町というのは福島県の太平洋に面した「浜通り」という地域に位置する町です。事故があった福島第一原発からは、南におよそ20キロ。福島第一原発がある双葉町と大熊町、その南が富岡町、そのさらに南が楢葉町という位置関係です。福島第一原発の事故の後、楢葉町の大半は警戒区域に指定され、すべての住民が避難を余儀なくされました。2012年の8月、特別な許可無く立ち入りが可能な「避難指示解除準備区域」に再編。2015年9月5日、すべての住民が避難した町としては初めて、全域ですべての避難指示が解除されました。福島県内には至るところにモニタリングポストという放射線量の線量計がついておりまして、ここJR竜田駅前の線量計は今、毎時0.16マイクロシーベルト。年間線量に直すと1ミリシーベルトにも満たないという値です。
今日は福島県楢葉町にお住まいの高原カネ子さん(68)にお話をうかがいました。
まず高原さんに2011年3月11日震災当時のことを伺いました。
高原
2011年の3月11日は、明後日に控えた太鼓のコンサートと展示会の準備で町の公共施設で時を迎えたんですね。すごい揺れなのでコンサートや展示会どころじゃないなと思いまして、家に戻り、あまりの余震で、これはもう避難所に行くしかないなということで息子と避難所に行きました。築8年の家だったので、家の被害とか、住めないことはなかったんですけど、ただもう家族だけで耐える余震じゃないなと思って。私たちはまだ動けるし、避難所に行けば何か役立つかなと思って。その夜は避難所で一晩明かしました。翌12日の朝8時に全町民の避難指示が出ました。娘の家族と、私たち家族と、それから仲間の「うしお会」の家族と18人ぐらいで車二台乗って、南いわき方面へ向かいました。いわき市の避難所はいっぱいで入れないし、私はペットもいたので入れず、知人の家で2泊しましたけど、2回目の事故でさらにいわき市の皆さんも避難すると言う事態になったので、私は親戚を訪ねて東京へ行きました。飯田
「うしお会」というのは和太鼓グループの楢葉天神太鼓の「うしお会」で、高原さんはここで子供たちに太鼓の指導をされていました。町の指示された避難所に全く入れないということで、その後、東京方面へ避難をされて、藤沢、いわき市、と転々とされたんですけれども、2015年9月の指示解除をもってご自宅に戻られました。今は語り部として活動されています。震災からまもなく6年。語り部として、どんなことを伝えているのでしょうか。高原
震災後の避難経路。なぜ私たちは何カ所も転々としなきゃならなかったのかということもありますし、それから家族が離れ離れに暮らさなきゃいけないという事情ですね。それからふるさとを追われた切なさというのですか、毎日の生活の中で感じたことを語るようにしてきました。飯田
話を聞いた方の反響は?高原
報道で見たり聞いたりするだけじゃわからない部分を知ることができてよかった、という声が多いですね。体験したこと全て話しますし。楢葉に帰ると決めたこととか、帰ってからどう暮らしているのかということををお話しします。それから楢葉は「帰れる町」なので、楢葉に住んでいた私たちには「帰る」とか「帰らない」とかの選択肢がありますよね。でもやっぱり選択肢のない、帰れない方もいるわけで。そういうところの差も含めて話します。飯田
避難指示が出ていた時は結構報道もありましたけれども、帰ったらどういう暮らしをしているのかというのは、あまり報道がないイメージです。高原さんご自身は今どういう暮らしをされているのですか?高原
ほんとに私としたらごくごく普通の生活でありますし、買い物はどう?不便?とかよく言われますけれども、もともと便利な街でもなかったですしね。大きな入院施設があったわけでもなし、たいしてそこら辺は何も変わらないですね。そんなに大変だとは思いません。買い物もまぁちょっとしたものだったらスーパーはもちろん、あるいはちょっと大きなものを買うときだったら、いわきまで車で行けばいいし。もともとそうでしたからね。飯田
じゃあ実感としては震災の前の暮らしに戻っていると言うことですか?高原
震災前と比べて何が違っているかと言われると、今は震災前よりもすごく慌ただしい街ですよね。例えば作業員さんが一生懸命働いてくださっている姿もそうですし、何かは確かに違います。ただみんな慌ただしく頑張ってくれているんだな、とは感じます。飯田
月日を重ねて、みんなだんだん記憶の中からスペースが小さくなっていってるとか、風化しているという報道も結構ありますけれども、その辺語り部として、高原さんご自身が気を使ってるところはありますか?高原
ここに戻ってきて住んでる者にとったら、ある意味、風化は平穏に戻ったと言う事かもしれないというふうに思う時もあるんです。逆に避難民とか、被災者とか、いつまで私たちそういう気持ちでいなくちゃいけないのか、というのを含めて「風化」ってとても複雑かなって。災害としては風化させてはいけないと思いますが、私たちが日常を送る間ではもう、通常に戻った、非日常から日常に戻ったという日が、一日も早く来なくちゃいけないと思うので。風化もさせないように、語り部は続けていかなくちゃいけないだろうとは思う。防災にもつなげなくちゃいけないと思う。だから私は3月11日は防災グッズをそろえる点検日にするとかして、心の中では「風化させない」というように思っています。あとは「風化」というよりも「元に戻りつつある町だよ」っていうふうに見ていただきたいという方が大きいかもしれません。飯田
何度か取材で楢葉に来ていますが、結構いろんなところで家を直していたりとか、戻ってる人がいたりとか、そういう意味では、これからどんどん人が集まってくる街なんだろうな、って感じます。高原
それはすごく感じますね。学校が始まれば当然多くなるだろうし、夜の灯りが増えた時はすごく嬉しいですね。飯田
町のどんなところを1番見てほしいですか?高原
もちろん今山積みになっているフレコンバッグを見ていただいていますし、それから津波に飲まれた地域も、天神岬から見てもらっていますし、新しいエネルギーも考えてるんだよっていうことで洋上発電所、いろんなところを案内したり、それから楢葉に帰ってきた人たちが、生涯学習や生きがいづくりをして楽しんでいるところにも、これからは案内したいと思いますね。ほんとに帰ってくる人たちは楽しくしてるよと。みんな仲良くしてるよっていうことを見ていただいて、「やっぱり私も(楢葉に)帰ろうかなぁ」とか「じゃぁ楢葉に行ってみてみるかな」という気持ちになってもらえるような案内にしたいと思います。飯田
県内の方と県外の方、どちらが多いですか?高原
県外です。飯田
県外の方は、「普通に暮らしてるんだ」と驚かれる方が多いですか?高原
もちろんです。そういうのをお聴きしたときに、
やっぱり案内人をやっていて良かったなと思います。
高原さんの「いつまで被災者じゃないといけないのか」という発言は、言っていいのかな…と躊躇しながら話してくれたのですけれども。我々も「風化、風化」って言うじゃないですか。でマスコミの報道が少なくなったから風化が危ぶまれるみたいな。考えてみたら「被災者」というキャラクター設定みたいなものに我々が縛っちゃっているのかなっていうふうに感じたんですね。6年が経って、本当に前に向かって歩み出さないといけない時ですよね。高原さんの言うように防災の部分では絶対に風化させていけないんだけど。じゃあ日々の暮らしの中で記憶の忘れ方のコントロールというんですかね、一生懸命暮らしているときには戸棚の中にしまっておいて、どこかのタイミングでまた出してきて思い出すというように、コントロールする時期に入ってるのに、都心で見ている我々が、まだそこに至っていないとすごく感じたんですね。そして、高原さんに今後についても伺いました。
高原
5年って考えたときに、この5年の間に楢葉に帰ってくる人、「戻らない」って決めた人、それぞれの生活が、おそらく5年でしっかりと落ち着いてくるんだろうと思いますし、少なくとも5年もかからないでそうなって欲しいと願いますね。そうして「戻る」って思った人たちが定まってきて、新たなまちづくりがされていくんだろうというふうに思います。この6年間いただいた支援を忘れないで、しっかりと自立できるような住民になっていくべきだと思います。多分子供たちも帰ってきたら、きっと賑やかな声が聞こえる町に戻るだろうと信じてます。飯田
高原さんご自身は、語り部は…高原
できたら次の方を育てて、5年後には退けるように後継者を育てたいと思っています。飯田
太鼓のご指導をされていて、お子さんと関わることも多いですよね。子供たちの表情とかって、この5年6年で変わってきましたか?高原 以
前は「うしお会」って子供たちのみのチームだったんですね。40人もいた子供たちが全国に散らばって避難して、時々会って避難中も大きなイベントを5~6回やりましたけれども、イベントの度に、子供たちが強くなるし元気になるし、すごい順応性がある。新しい地域に順応してるな、って実感もあったんですね。ですからどこに行っても子供たちは大丈夫だと思いますし、こっちにも子供たちが帰ってくるって聞いてますので、これからは子供たちにも今までのように太鼓を持っていただけたらなと思ってます。飯田
その子供たちから語り部の後継者が出てくれたらどんどん広がっていきますね。高原
いま語り部は、実際に体験した者が語っているわけですよね。それが次世代に移った時、小さくて体験が薄い子供たちがどう語っていくか、っていうのは、これはすごくまだ未知の世界ですね。飯田
子供たちに語りかけたりもするんですか?高原
そうですね。案内人をするときに相手が高校生だったり、町内の子が帰ってくるにあたってバスで案内したりと言うのはありますね。子供たちは、もう「懐かしい」って言う感じですね。飯田
震災からまもなく6年経つ今、語り部として伝えたいことってありますか?高原
6年経って「長かったのか?短かったのか?」ってよく聞かれるんですけど、私の中ではあっという間に過ぎていったように思えるんですよね。この6年間何があったのかなーって時々思う。なぜここから出なければいけなかったのかなって思うほど、今普通に暮らしているつもりなので、ただもちろん忘れちゃいけなかった光景は、目に焼き付いていますけれども。ただ6年間本当にいろんな方にお世話になったという事、そのことだけが心に残ってて。これから先、自分たちも他の地域に何かあったとき、こんなにお返しできるんだろうかっていうのはあるので、辛かったことを忘れちゃいけないと言うよりも、お世話になったことを忘れちゃいけないのかなって思います。飯田
その1つとして、広島で土砂災害があったときにご自身もすぐ動かれましたよね。やっぱりああいうのはニュースを見ると私も動かなきゃ、と思うんですか?高原
もちろんですね。やっぱり素晴らしい支援を受けたので、「今度は私たちが」って思いましたし。あと支援をした後に体験したんですけれども、大川小学校(宮城県石巻市)のみなさんにお地蔵さんを送ったり、安佐南区(広島県広島市)にお地蔵さんを送ったりした後に頂いたお礼のお手紙をみんなで読み合わせたときに、「『ありがとう』って言ってるより言われた方が元気になるよね」という言葉が出てきたので、やっぱりお世話にばかりなっていたんじゃ、免疫力も上がらないんだなと。その中で何ができるかが素晴らしかったなって思います。
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東日本大震災から6年 飯田浩司の福島県楢葉町レポート【3/6(月)ザ・ボイス コメンテーター長谷川幸洋】(音声配信)>