海は奪うだけじゃなくて恵みを与えてくれる「東日本大震災から6年…復興は今」飯田アナ岩手県宮古市レポート

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ニッポン放送特別番組「東日本大震災から6年…復興は今」 2017年3月11日(土)13:00~17:00放送 にて、飯田浩司アナウンサーが岩手県宮古市の取材レポートを行いました。

岩手県の宮古市は岩手の沿岸部中部にありまして、西隣には盛岡市があります。東日本大震災では、直接死・関連死を含めて死者474名、行方不明者94名、合わせて568名の方が犠牲になりました。家屋の倒壊は4098棟に上っております。宮古市の田老という地区には、X型の大きな堤防があったんですが、そこを乗り越えて津波がやって来たというところでもあります。

この宮古市の宮古港は、400年以上の歴史があります。南部藩の時代(1615年)に港が開かれたというところなんですが、外海から遮蔽された天然の良港として知られてまして、沖合に豊かな漁場を持つ漁業基地として古くから栄えておりました。それゆえ、戦前から、この地には船乗りを育てる学校が複数ありました。まずは、漁師さんを育てる岩手県立宮古水産高校。こちらは、明治28年に開校しております。その後、昭和15年に、船員を育てる国立の海員養成所が開校しました。海員養成所は現在、国立宮古海上技術短期大学校となっております。

海と寄り添ってきた東北の太平洋沿岸。東日本大震災では、各地で船舶も大きな被害を受けました。ビルの上に大きな船が乗ってしまったという映像を覚えてらっしゃる方も多いと思います。宮古市にある景勝地・浄土ヶ浜。この周辺を巡る「みやこ浄土ヶ浜遊覧船」の船長、坂本繁行さんにお話を伺いました。この方は、船で津波から避難した、という方なんですね。まずは、2011年3月11日、当時の状況を伺いました。

みやこ浄土ヶ浜遊覧船

みやこ浄土ヶ浜遊覧船

みやこ浄土ヶ浜遊覧船坂本船長と飯田

みやこ浄土ヶ浜遊覧船坂本船長と飯田

坂本
ちょうど13時40分の団体がありまして、運航してました。14時20分くらいに船着き場に戻って、お客さんは降りられて、ちょうど浄土ヶ浜の方にいたんです。(私は)もう帰る準備をしてたんですよ。そしたら地震があったって、(事務所の)中から飛び出してきたんですよ、船員が。私は船から降りて歩いていたから、あんまり感じなかったんです。(地震が)大きかったかって訊くと大きいっていうから、じゃあ、船出そうかって。それで私はロープ放して、すぐブリッジ来て、エンジン掛かったらすぐ出ました。

飯田
なるほど。ちょうど運航し終わった直後だったから、エンジンもすぐ掛かった?

坂本
はい、そうです。

飯田
避難のためってことですか?

坂本
そういうことです。私たちは小さい頃から、地震があると津波が来るっていうのは、だいたい教えられてますから。だから、過去にも大きい地震があったりしたときは、夜でも来て、時間があれば出そうということで、沖に出すんですよ。

飯田
ご自身の命を守ろうと思ったら、高台に避難するっていうのがあるじゃないですか。そうじゃなくて船に来たっていうのは、これ、船を守ろうってことだったんですか?

坂本
そういうことですね。(津波までの)時間がないと思えばもう、高台で待機するしかないですけど、7分後にはもう沖に出てますから。だからとりあえず、沖にさえ出ればどうにでもなると。津波が来たっていうのを感じたのは、ちょうどここの沖の閉伊崎、6kmくらいですけど、この海岸線が見渡す限り真っ白なんですよ。

飯田
真っ白?

坂本
「おい、何だろうな? あれな。」って。宮古湾の津波が15時25分に防波堤を超えてるじゃないですか。その時の水位が上がったやつです。それが海岸線にぶつかったやつが真っ白く見えるんです。

飯田
なるほど。海側から見ると、真っ白く、ペンキを塗ったような壁のように見えると。

坂本
岩に波がぶつかると白く見えるじゃないですか。あれが一気に上がっているから。

スタジオにて、飯田アナウンサーと上柳アナウンサーのコメントがありました。

飯田
船に乗っている方は、津波が来るときは、その前に沖に行けっていうのは鉄則。昔から語り継がれていることだそうなんです。ただ、出てしまった以上は、いずれ港に帰らなければいけないんだけども、そこは破壊されていると。この坂本さんと機関長と甲板員の3人で船を出したそうなんですが、結局、13日のお昼頃まで丸2日、沖にいて待機していた。

上柳
津波に向かっていって、その津波は乗り越えることは何とか出来たってことなんですか?

飯田
これはですね、沿岸まで来ると津波っていうのは……

上柳
バァーとね、水深が浅くなりますから、波が高くなりますよね。

飯田
ただ、沖にいて水深が深いところっていうのは、まだ波として立っていないので、グーッと押し上げられて、

上柳
水面が上がって、船も一緒に持ち上がってしまう。

飯田
そういうことだそうです。なので、係留しているよりは沖に出た方が良いと。

上柳
波にダンッとぶつかる訳じゃなくて、浮かび上がって、乗り越えていくと。

飯田
何度も上げられては下がりっていうのを繰り返していたそうです。それだけ故郷に甚大な被害をもたらした海、津波。震災のあと、海に対する見方が変わったかどうか伺いました。

坂本
私は小さい頃から、秋は秋刀魚、冬は鮭。そういう季節、季節の魚が獲れますから、宮古にとっては、海は魚の宝庫でしょ。それと、あとは、私たちは観光をやってますけども、自然はそのままですから。私たちが来る前と変わりませんから。

そして、先程も言いましたけども、宮古には船乗りを育てる海上技術短期大学校というところがあります。この海技短大には、震災を経験した生徒さんもいるんです。今回の取材では、お2人にお話を伺うことが出来ました。まずは、卒業を間近に控える海上技術短期大学校2年生の髙木飛雄馬さん。髙木さんは、福島県いわき市のご出身です。

宮古海上技術短期大学校

宮古海上技術短期大学校

生徒たちと飯田アナウサー

生徒たちと飯田アナウサー

髙木
(自宅は)津波の被害はなかったんですけど、原発関係で……。

飯田
そうか。そうですよね。いわき市は。

髙木
自分が中学の頃、硬式の野球をやってたんですよ。野球をやってた場所が浪江町っていうところで、原発から10kmとかしか離れてなくて、そこがメイングラウンドだったんです。自分はそこの監督と昔からの知り合いで凄い尊敬できる人だったので、その人に是非教わりたいと思って、いわき市から通ってました。でもチームの周りのメンバーは皆、その周辺に住んでいる人とか、コーチもそっちに住んでいる人だったんですけど、原発がそうなってしまったので、もう解散せざるを得ないっていう形になりました。コーチも津波のときに消防の要員に充てられて

飯田
消防団だった?

髙木
はい。助けに行ったんです。それで、そのまま津波に飲まれてしまって、未だに行方不明の状態なので……。そのとき、兄が茨城県に住んでて、その兄のところに一時、避難したんです。避難して家族と相談して、転校して茨城県で野球をやるって決めて、でも転校先でやっぱり原発の影響で色々と言われたこともあったりして、"被ばく"呼ばわりされたりとかもいっぱいあったし……。それでも先生とかが気を使って、色々助けてくれたこともあったり、次第に中学校の仲間も打ち解けあって、何とか良い生活を送れるようになりました。

飯田
それだけ野球に打ち込んでた髙木君が、今度、船員を目指すっていう……。

髙木
兄が船乗りなので。最初はやっぱ震災のこととかもあったんで、津波が恐いっていうのも色々あって、でも、船の上から見る海は、本当に綺麗なので好きですね。今はもう、海が好きになりました。

続いて、岩手県の北部沿岸、久慈市の出身、海上技術短期大学校1年生・廣﨑恭一さんです。

廣﨑
家は道路を挟んで堤防があって、海なんです。

飯田
じゃあ、もう本当に海っぺりにご自宅があった?

廣﨑
はい、そうです。

飯田
じゃあ、その堤防を越えて、津波が来た?

廣﨑
実家があるんですけど、ちょうどその裏が高台になっていて、その高台の上に逃げたんですけど、その上から見てて、堤防を越えて波が入って来るのを見て。家って固定されているように見えて、土台の上に置いてあるだけじゃないですか?それで波が入ってきて、家が浮いて、流れていくのが見えましたね。

飯田
ご家族は?

廣﨑
全員、無事だったんで、それだけは、はい。

飯田
そこで転機が訪れた?

放送では紹介できませんでしたが、震災後、大学に通った廣崎さんは、就職活動をする中で「何か違う」と考え、船乗りになるために海上技術短大を受験しました。

廣﨑
元々、祖父が漁師をやっていて、父が船乗りをやっていたので、自分の身近で船に乗っている人がいたので。それで知らない職業でもないですし、それにやっぱり海の上を走るってなるとワクワクするじゃないですか。

飯田
小さい頃はやっぱり、乗せてもらったりしたんですか?

廣﨑
はい、そうですね。祖父の船に乗せてもらって釣りとかに行ったりしてました。

飯田
でも、目の前で津波の威力を見せつけられた訳じゃないですか?(船乗りを目指すことへの)躊躇とかはなかったんですか?

廣﨑
いや、あまりなかったですね。やはり、海って津波とか奪うだけじゃないんですよ。むしろ、貰っているものの方が多かったので、差し引きしたら全然プラスで有難いなって思って。

飯田
そうか。漁師さんをお祖父さんがやってらっしゃって、やっぱり海の恵みの方をいっぱい見てきた?

廣﨑
はい、そうです。それを守っていく、保護していくっていうのもやっぱり大事だと思うんですよ。与えて貰っている以上は。なので、海は大事に生活していきたい、大事にしていって欲しいと思っています。

飯田
それは、津波を目の当たりにしても変わらない?

廣﨑
はい、そうです。津波を見てからより一層思うようになりました。むしろ。

飯田
それは、どうして?

廣﨑
やっぱり、自然の力ってどうしようも出来ないんですよ。人間が堤防を建てても、それを軽々と乗り越えてくるじゃないですか。やっぱり、人間がどうしようもない力っていうのは、それだけ凄い莫大なエネルギー、資源を持っている訳じゃないですか。

飯田
そういうどうすることも出来ないもの。もうこれは、尊敬するしかないと。

スタジオにて、飯田アナウンサーと上柳アナウンサーのコメントを放送しました。

飯田
先ほどの遊覧船の坂本船長も今、お聴き頂いた船乗りを目指す若者もこれから海の恵みと共に生きていくとという風に語っているんです。今週、取材をしてきた陸前高田や大槌では津波に対しては、「逃げるが勝ち!」って話を聞いたんですけれども、東北、太平洋沿岸の人々は、これからも海の恵みと寄り添いながら、その脅威に対する教訓も伝えていくんだと。

経済復興ってことを考えると、この海っていう莫大な資源をどう活かしていくかっていう……。自然の驚異を目の当たりにしたんだけども、それに対して謙虚に、頂けるものを頂いてっていう。海と寄り添って生きていくっていう。若い二人からそんな決意を感じたところがありました。

上柳
海は奪っていくばかりでなく、色々貰っているという言葉が非常に印象的でした。例えば、三陸町なんかですと、明治の時期、昭和の時期に津波が来て、ここまで津波が来たっていう石碑を立てていたのに、それを撤去しちゃったりなんかしてね。飯田アナウンサーのリポートの中で、せっかく色んな記録を残したのに、それが書物になって本棚に入っているだけになっちゃったっていうのが印象的でした。

飯田
70過ぎの方なんですが、陸前高田の實吉義正(みよし・よしまさ)さんという方。今度こそは残さなくちゃいけないんだってう悲壮な決意を語ってました。

上柳
そうですね。書物に残して、それで全部が安全、無事、終わりってことじゃないですね。語り継いでいかなきゃいけないんだなってことは、本当に痛感いたしました。

放送の模様はradikoタイムフリーにてお聴きいただけます。
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