側近が語る! 菅政権の果たした役割は?
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「報道部畑中デスクの独り言」(第276回)
ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は、菅政権の果たした役割について---
2021年、新型コロナウイルス感染症、東京オリンピック・パラリンピック……今年も大きなニュースの多い1年でした。
政界では10月に衆議院選挙が行われましたが、その前には自民党の総裁が変わり、選挙後には野党第1党・立憲民主党の代表も交代しました。秋から冬にかけて、特に慌ただしい時期となりました。
現在は岸田政権となり、「新しい資本主義」構築に向けたさまざまな方策が模索されています。一方で、およそ1年にわたって菅前政権が果たした役割、これを振り返るのも、年の瀬にあたり、意義のあることと思います。
総理大臣は節目節目で記者会見を行います。機会が限られるなかで、私も何回か質問のチャンスを得ました。9月9日夜の会見、この日は3日後の12日までが期限とされた東京・大阪などの緊急事態宣言の扱いが本来のメインテーマでしたが、菅総理が自民党総裁選への出馬を見送った直後の会見でもありました。政権の1年を振り返る発言が相次ぎ、退陣会見のような趣でもありました。
記者は質問にあたり、いかに本音を引き出すか、知恵を絞ります。私もそうでしたが、この日はこんな質問をぶつけました。
―――総理はコロナと総裁選の選挙活動に莫大なエネルギーを要すると言いました。しかし、莫大なエネルギーと言うより、党内の“菅おろしのエネルギー”に気圧されたというのが正直な印象です。総理の言う莫大なエネルギーとはどういうものなのか。また、発足直後に国民の信を問う選択肢もあったと思うし、解散するチャンスもいくつもありました。悔恨の念はないですか?
これに対し、菅前総理の回答は次のようなものでした。
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「まさに莫大な、とてつもないエネルギーが必要だなと思いました。私自身はこの総裁選挙に出馬をする、準備を進めるについて、どうしても毎日の公務をこなしながら……私は派閥がないので……そういう意味で、自らいろいろ行動をしなければならないことにも直面しました」
「私自身が最初に(総裁選・首班指名選挙に)当選したとき、極めて高い支持率があった。いろいろな方から助言も受けました。しかし、私はとにかく仕事をさせて下さいと。私は仕事をするために総裁に立候補して、総理大臣を目指したわけだから。やはり解散というよりも、そちらの方を選んで来たということです」
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菅前総理には「原稿棒読み」や、「発信力に難あり」といった評判がもっぱらでしたが、このときはずっと私の目を見ながら話していたことを覚えています。特に「私には派閥がありませんので」という言葉には、無派閥の限界、総裁選断念という何とも言えない悔しさが見てとれましたし、「とにかく仕事をさせて下さい」という言葉には、飾りのない意志を感じました。やはり自分の言葉で語ることは何よりも伝わると実感した次第です。
その菅前総理を間近で見て来た人物に、前官房副長官の坂井学衆議院議員がいます。
自民党内には「ガネーシャの会」という無派閥のグループがあります。総裁選で菅氏を支持していましたが、坂井議員はそのなかの1人。菅内閣発足後、官房副長官に抜擢され、総理の側近として重責を担って来ました。
「官邸のなかがどのようなリズムで動いているか、意思決定がどうなされて行くか、いままでなかなか見えなかったことを実際に体験させていただいた。頭のなかではわかっていましたが、実際、『ああ、そうか』と腑に落ちたこともありました」
このように自らの体験を振り返る坂井議員に、菅政権の1年について話を聞きました。
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――――「仕事をする内閣」を旗印に進んで来た菅内閣、側近としての実感は?
「その覚悟はすごかったし、課題から逃げないこともすごかった。例えば、福島第一原発事故の処理水の海洋放出を決めましたが、いままでずっと課題になって来た案件であり、先延ばしにできない、自分の政権のときにけりをつけると(総理が)自ら踏み込んで海洋放出を決めたものです。批判やいろいろ賛否があるような問題に関しても、逃げずに自分で担って行く、決着をつけるという覚悟は、たいしたものだったと思っています。朝から晩まで、それこそ国の政治のことをずっと考え続け、すべてのエネルギーをそこにかけてやって来ている。近くで見ていて感心をする働きぶりでした」
――――朝の散歩のときぐらい、いや、散歩のときでさえ考えていた?
「そう、散歩しながら、頭が整理できると言って……。要はそれ(政治のこと)を考えるために散歩しているようでした」
――――いちばん印象に残っている政策、「やりきった」と思うことは?
「クアッド(日米豪印戦略対話)について、初の対面での首脳会談がアメリカで行われました。日本を出る前だったか、アメリカに日本産食品の輸入禁止を撤回してもらった。これは4月の日米首脳会談のときに、菅総理がバイデン大統領に依頼したものです。その前に原発処理水の放出を日本は発表していた。処理水でこれから大変だというときに、アメリカが自分のところで輸入を開始することによって、自ら安全と示してくれているわけだから……政治の力を感じました。菅総理とバイデン大統領との信頼関係によるものが大きかったと感じています。菅総理の大きな実績の1つだったと思う」
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コロナ対策やデジタル庁発足が注目されるなかで、意外な回答だったと思います。
インタビューを行った坂井議員の事務所には「菅政権でやってきたこと」と題したポスターが貼ってありました。そこには新型コロナ対策の全力投球、携帯電話料金の値下げ、最低賃金の引き上げ率過去最高へ、デジタル庁スピード発足、不妊治療の保険適用、黒い雨訴訟は上告せず救済措置など、あわせて27の項目が挙げられていましたが、「アメリカによる日本産食品の輸入規制の撤廃」はポスターのいちばん上に記されていました。
この輸入規制撤廃が明らかになったのは9月下旬、総裁選出馬断念後、「レームダック」と言われかねない時期でした。側近の発言ですので主観的な要素もあるでしょう。しかし、「外交は弱い」と言われていた菅政権、実は外交でもしっかり仕事をしていたということになります。
菅前総理はいわゆる「世襲の議員」ではありません。秋田から上京して就職、市議会議員から国会議員、総理大臣へ上り詰めました。「令和の今太閤」……そんな可能性も秘めていたと思います。
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――――近くから見た菅総理は?
「迫力はあったけれど、私は少なくとも怒鳴った姿は見たことがない。よく話を聞いて下さる方、安定感というか、どっしりした感じの方でした」
――――逆になぜ1年しか続かなかったのでしょうか?
「とにかく実感として、コロナに明けてコロナに暮れる政権でもありました。コロナというのは大変大きかったと思う」
――――「こうすればよかった」というような反省点はなかったでしょうか?
「菅総理の会見などのときに、もう少し周辺の話や、本人の苦労などをお話しされてもよかった。というか、そのようにうまく仕向けられればよかったです。大変重たい決断を、本当に悩み苦しみながらして来たという姿など、一切外に見せない方でもある。当然、国民にもなかなか伝わらず、十二分に理解していただくところまで行かなかったのは残念だったと思います」
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菅内閣では、賛否が分かれるような決断もありました。原発処理水の問題、黒い雨訴訟の他にも、医療費の窓口負担見直し、国民投票法の改正など……その賛否についてはあえて触れませんが、ハレーションを覚悟の上で下した決断、その勇気と価値は認められてしかるべきでしょう。
思えば、この永田町界隈、決断できず、先送りされてしまうことがいかに多いことか。そして、拉致問題、財務省の文書改ざん問題など、いまだ決着していない問題がまだまだあることも忘れてはなりません。
最後に菅政権の果たした役割、岸田政権に望むこと……坂井議員に聞きました。
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――――菅政権はどんな政権でしたか?
「大きく日本のかじを切った1年で、かじ取りをした政権でした。日本が歩みゆく方向を、グリーンとデジタルという言い方でわかりやすく示し、けん引役となる役所、デジタル庁もつくった。カーボンニュートラルに関しても大きな方向性をつけました。日本のかじを大きく切って方向性を示した政権でした」
――――現在の政権に望むことは?
「グリーンにしてもデジタルにしても、1年でできることには限りがあります。より深掘りをして、結果を出してもらえるとありがたい。国民に変わったなと思ってもらえるような政治結果が出るとうれしいです」
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「政治家の人生は歴史という法廷において裁かれる」……この言葉を残したのは、かの中曽根康弘元総理大臣ですが、菅政権はどう裁かれるのか? それは後世に委ねられることになります。
今年の本コラム「報道部畑中デスクの独り言」をご覧いただき、ありがとうございました。2022年は寅年、コロナ禍という歴史のなかに刻まれる1年になるのでしょう。どうぞよいお年をお迎えください。(了)
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