「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
全国の歴史ある駅弁屋さんは、明治時代の鉄道建設に際し、尽力された地元の名士の方が作られたお店が多くあります。金沢駅弁「大友楼」もその1つ。しかも、そのルーツは、加賀藩御膳所の御料理方。百万石を誇るお殿様をはじめ、お城の料理を作っていた由緒ある家で、いまも繁華街・香林坊の近くに料亭があります。“包丁侍”とも云われた武士の大友家は、なぜ、金沢駅弁を手掛けることになっていったのでしょうか。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第33弾・大友楼編(第2回/全6回)
大阪からの特急「サンダーバード」が、終着駅・金沢に向けてラストスパートに入ります。北陸本線は、明治時代、長浜(米原)~敦賀間の鉄道を延伸する形で建設が進められ、明治31(1898)年に金沢まで開業しました。大正2(1913)年、直江津まで全線開業しましたが、平成27(2015)年の北陸新幹線開業に伴って、金沢以東が第三セクターに移管。現在、JRとしては米原~金沢間の路線となっています。
金沢駅東口から香林坊方面の路線バスに揺られて10分弱。南町・尾山神社バス停で下りて一本道を入ると、木造の歴史ある建物が現れます。ここが金沢駅弁を手掛ける「株式会社大友楼」の料亭です。「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第33弾・大友楼編は、これまでの駅弁屋さんとはひと味違った雰囲気のなか、金沢が誇る老舗料亭にお邪魔して、8代目の大友佐悟常務取締役にお話を伺います。
大友佐悟(おおとも・さとる) 株式会社大友楼 常務取締役
昭和58(1983)年9月24日、石川県金沢市生まれ(38歳)。大友楼8代目。大学卒業後、都内の日本料理店、石川県外の駅弁業者で修業を積み、平成25(2013)年、大友楼に入社し弁当部で勤務。いまは料亭・弁当部ともに現場管理、経営補佐などを中心に担当している。大友家では、本家当主の男系男子に「佐」の通字が受け継がれている。
●加賀藩の“包丁侍”から始まった大友家!
―大友家のルーツを教えていただけますか?
大友:加賀藩の御膳所に従事していた御料理方です。御料理方とは、藩の台所を担当する仕事です。私の父、7代目の佐俊(代表取締役)が料理を監修した映画『武士の献立』(2013年公開、松竹・北國新聞社)でも描かれた、いわゆる“包丁侍”でした。ただ、大友家だけでは、とてもお城の全部の料理を作りきれません。このため御料理方を務めていた家は何軒かあって、そのうちの1軒だったというわけです。
―御膳所では、どんな料理を作っていたのでしょうか?
大友:お城で働く人の料理はもちろん、お客様をもてなす「饗応料理」も作っていました。大友家が32代の料理頭を務めていた天保元(1830)年、城内だけでなく、城下町で暮らす方向けに“煮売屋”を始めました。煮売屋はいまの仕出し料理や出張料理に相当するものです。天保の大飢饉もあったこの時期、加賀藩は財政難に見舞われていました。そこで、(藩の財政再建の一環として)御膳所の副業で、煮売屋を始めたというわけです。
●加賀藩の藩政改革で、城下町へ出て生まれた料亭「大友楼」!
―どうして、いまのような「料亭」になっていったのでしょうか?
大友:その後、近江町市場へ魚介や野菜を持ち込む近隣の皆さんの“腰掛茶屋”を兼業するようになりました。藩政時代が終わるころまでには、小さな座敷を持ったお店に成長していきました。金沢は幸い、震災や戦災の被害を受けませんでしたので、いまの料亭も、当時の建物を一部活かしています。2代目・大友佐助のときに、大友の名字に「やかた」という意味の“楼”を付けて、「大友楼」という屋号を名乗るようになりました。
―お殿様の前田家とは、その後もつながりがあるそうですね?
大友:いまもお付き合いがあります。大友家には、代々の当主の方からご依頼があって、神事の包丁式をはじめ、有識の仕事に従事しています。いまは18代当主の前田利祐(としやす)さまですね。だいぶお年を召されていますが、以前はよくご来店いただいておりました。私より父のほうがつながりは強いんですが、私自身の結婚式でも来賓としてスピーチをしていただきました。
●前田家の呼びかけで、かつての家臣団が奔走してできた「北陸本線」!
―大友家は、鉄道の開業にどのような協力をされたのでしょうか?
大友:明治時代になって、各地に鉄道が開通していくなかで、前田家の呼びかけにより、かつての家臣たちが北陸の鉄道敷設に尽力いたしました。大友家も金沢駅周辺などの用地買収や寄付に協力いたしました。紆余曲折はありましたが、明治31(1898)年に福井県側から線路が延伸され、金沢駅が開業しました。この功績が認められ、開業と同時に、金沢駅の構内営業者として入り、駅弁を販売するようになりました。
―当時の駅弁販売状況は、どのようなものだったのでしょうか?
大友:立ち売りで販売していましたが、1日の列車本数が少なく、売れても、多い日で1日20~30個程度だったと聞いています。料亭という本業のお陰で、厳しい環境でも駅弁を販売することができたのではないかと思われます。金沢の駅弁は、20銭と50銭の普通弁当2種類で始まりました。ご飯とおかずが別々の折に入った二重折でした。この歴史に鑑み、いまも金沢駅では「加賀の四季」(1300円)という二段の幕の内を販売しています。
【おしながき】
<一の重>
・白飯 ゆかり
・五目御飯 紅生姜
・桜漬け
・大福
<二の重>
・焼鰤
・かまぼこ
・花五目巻き玉子
・海老の天ぷら
・治部煮
・焼売
・ミニトマト
・煮物(竹の子、ふき、人参、信田巻)
・揚げボール
・きんぴら(こぼう、人参)
掛け紙を外すと、彩りが綺麗な二段重が現れました。ひょうたん形の白飯と、梅形の五目御飯の2つの味が楽しめるご飯。そして、おかずには郷土料理の治部煮をはじめ、鰤の焼き魚や煮物など、料亭が誇る和食が丁寧に盛り付けられています。「加賀の四季」はその名の通り、季節によって一部の構成が変わる駅弁でもあります。ちなみに、金沢駅のあんと店には、姉妹品「金沢の四季」もあるので、食べ比べてみるのもよさそうです。
「サンダーバード」とともに北陸本線を駆け抜けるのは、名古屋行の特急列車「しらさぎ」。「しらさぎ」は、サンダーバードの前身、かつての「雷鳥」とともに、昭和39(1964)年から運行を始めた、北陸本線のなかでも歴史ある特急列車です。「駅弁屋さんの厨房ですよ!」大友楼編、次回は、昭和の特急・急行列車が行き来した時代の、金沢の駅弁について、お話を伺っていきます。
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連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/