故・石原慎太郎さんお別れの会
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「報道部畑中デスクの独り言」(第295回)
ニッポン放送報道部畑中デスクのニュースコラム。今回は、故・石原慎太郎さんの「お別れの会」について---
6月9日、東京・渋谷区のホテルで故・石原慎太郎さんの「お別れの会」が開かれました。新型コロナウイルス感染症の影響もあり、亡くなった2月1日から4ヵ月あまり経っての開催となりました。
周辺によると、当初は4月下旬に予定されていたものの、石原さんが亡くなったほぼ1ヵ月後に、典子夫人もこの世を去ったため、この日の開催になったということです。前日は典子さんの祥月命日3ヵ月でした。
お別れの会は午前10時から始まり、政界、芸能界、文芸界など幅広い分野の方々が訪れました。セレモニーの冒頭には発起人代表の安倍晋三氏、参列者代表の岸田文雄氏という新旧の総理大臣が顔を揃えました。
安倍元総理は石原さんが父親(安倍晋太郎・元自民党幹事長)を自宅に訪ねたときのエピソードを披瀝しました。自分が持っていた、しわの寄った『太陽の季節』の文庫本にサインをねだったところ、石原さんはその本を手にとって「君、サインを頼むんだったら、しっかりとした装丁の新刊本を次から持ってこいよ」と言いながら、にやっと笑ったのだと言います。
「一瞬で人をとりこにする魔力的な笑顔に、私もとりこになってしまった」と安倍氏は振り返りました。そして、石原さんが提唱していた憲法改正については、「この状況において『何をもたもたしているんだ』という声が聞こえてきそうだ」と述べ、実現に改めて意欲を示していました。
親族代表として伸晃さんがあいさつし、今年(2022年)1月、父親から「おい、伸晃、俺の人生は素晴らしい人生だったよな」と問いかけられたと言います。伸晃さんが「これだけ好き勝手なことをやってきたんだから、素晴らしい人生だと、胸を張って言っていいんじゃない?」と返すと、笑顔でニコッと笑ったことを明かしました。
そして、「根底には日本国のこの高度成長、青春時代をともに生きた作家・石原慎太郎の血が脈々と生きていた」とも……。
セレモニーでスピーチしたのは、この他に岸田総理や細田博之衆議院議長。2人はその後、内閣不信任決議案、議長不信任案が提出された国会に向かいました。三男の宏高さんも途中で国会へ……午後は2つの不信任決議案が粛々と否決されるという、ある意味、不思議な縁の1日となりました。
献花には森喜朗氏、菅義偉氏の総理経験者や、小池百合子東京都知事の姿もありました。森氏は記者団に「オリンピックが開けたのは石原さんのおかげ」とした上で、「我々の時代は終わったんだなと、改めて遺影を見て思った」としみじみと語りました。
さらに、文壇や芸能・スポーツ関係者も。弟・裕次郎さんからの縁で訪れた人も少なくありません。
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「勝新太郎の妻としてまいりました。海が好きだったので、もっと生きたかったでしょう。どんどん皆さん亡くなられるので、がんばっていきたいと思います」(中村玉緒さん)
「一つの時代をつくり上げた方。昭和というと石原兄弟だった」(高橋英樹さん)
「野球が好きで応援もしていただいた。外で見ていると強そうに感じたが、実際に会ってみると優しかった」(王貞治さん)
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祭壇はロイヤルブルーを基調に、湘南の海をイメージ。中央には石原さんの生前の写真があり、ツイードのジャケットにノーネクタイ、微笑むその姿はどこか少年っぽく見えます。周りには石原さんが所有したヨットのセイルがあしらわれていました。
会場の後方には約300冊もの著書が壁にずらりと並べられ、自宅の書斎とアトリエも再現されていました。生前の映像も披露。弟の裕次郎さんとのデュエットの様子は、都知事時代、ことあるごとに「歌は裕次郎よりうまい」とはにかみながら話していたことを思い出します。
そして……会場の片隅には、典子夫人の遺影も飾られていました。前出の安倍元総理のスピーチでは、長男の伸晃さんの言として、「オヤジが呼んだんじゃないよ、おふくろがついていったんだよ」というやりとりが紹介されました。「それが石原慎太郎だと思った」……安倍氏は語ります。
会に先立ち、石原さんの4人の子息、長男で元衆議院議員の伸晃さん、次男で俳優の良純さん、三男で衆議院議員の宏高さん、四男で画家の延啓さんが記者団の前に立ちました。伸晃さんの言では、セイルの色と祭壇が青くなったのは偶然とのこと。「親父が海好きだったからかな」と話していました。
また、良純さんは書斎とアトリエについて、「石原慎太郎の頭のなかって、こんな感じだったのかな」と“解説”します。私には雑然としているように見えましたが、自分の部屋を考えると、何となく親しみを感じます。たくさんの本に囲まれて表現活動にいそしむ姿が見えてきました。
ひときわ印象的だったのは、書斎の机に置かれていたワープロです。パソコンやスマホが当たり前の世の中で、長年愛用していたのだと言います。何回も修理をしながら、文字を紡いだこだわりの品だったのでしょう。
万年筆や原稿用紙など、文豪にはこだわりの愛用品があるとよく聞きますが、こうした品からは、これと一度決めたものは長く付き合い続けるという石原さんの人生哲学のようなものを感じます。それは、側近を長く重用する人づきあいにも通じていたと思います。「縁を大切にする」ということでしょうか。
われわれ記者も石原さんとは丁々発止でしたが、人間的に縁が切れたという話はあまり聞きません。政治家としても好き嫌いが激しく、袂を分かった人もいましたが、お別れの会には約5000人が訪れたと言います。石原さんはそれだけの縁を結んでいたということなのでしょう。
私も記者という形で石原さんと時間を共有した縁に感謝しながら、取材がひと区切りついたあと、献花でお別れをしました。合掌。(了)
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