それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
埼玉県川越市を拠点に活動するシンガーソングライター「たかはしべん」さん。昭和24年生まれの74歳です。ニット帽に、まんまるメガネがトレードマーク。いつもニコニコと笑顔が絶えず、こちらまで笑顔になってしまいます。
北海道・富良野の隣にある芦別市出身のべんさんは、子どものころ「山の向こうには何があるんだろう」と思いをめぐらし、夜になると満天の星空を眺めては夢をふくらませるような少年でした。
父親は炭鉱で働く電気技師。昭和30年代、芦別の炭鉱町には約1万5000人が暮らしていたそうです。映画館や大きな病院もあり、幼稚園、小学校、中学校からは子どもたちの元気な声が溢れていました。
「冬はスキーやスケート、春は野原で野球、夏は川遊び、秋は山菜採り。遊びのタネはいくらでもありましたよ」とべんさんは目を細めます。
ところが炭鉱が斜陽産業になると、活気のあった町を不況の嵐が襲います。仕事が減って賃金の支払いが遅れたり、出なかったり……。
「お金がないのに父は酒を飲んでばかりで、母とのケンカが絶えない。だから私は、学校から家に帰りたくないような子どもになっていましたね」
とうとう炭鉱が閉山になって、北海道から千葉県へ移り住んだのは、中学3年生の夏休みでした。
フォークソングとの出会いは高校1年生のとき。友達から「このレコードがいいから聴いてみな」と渡されたのが、キングストン・トリオの『500マイルもはなれて』だったそうです。それがきっかけで、社会的なテーマを歌ったアメリカのフォークソングに興味を持つようになりました。
高校を卒業後、電電公社(現・NTT)に就職し、川越に配属されます。当時は学生運動が盛んで、若者の関心事は安保やベトナム反戦運動。べんさんはフォークソングを歌うことで社会活動に関わっていこうと、アマチュアのシンガーソングライターになり、歌をつくっていきます。
「当時、子どもの自殺が多かったので、子どもの悲しみを書いた『空をとぶ子供』を自主制作でレコードにしたら、新聞やテレビ、週刊誌で紹介され、とても評判がよかったんです」
結婚して子どももいたべんさんでしたが、安定した会社を辞め、歌手一本でいこうと決意。44年前、30歳のときでした。
歌い続け、来年(2024年)で音楽生活45年を迎える、たかはしべんさん。その原点を伺うと、「宮沢賢治」だと言います。
「炭鉱が閉山したとき、子ども心に貧困のつらさを知りましたね。そのころ『雨ニモマケズ』を読んでショックを受け、『宮沢賢治のように生きてみたい』と思ったんです。SDGsの17の目標は、1番目が『貧困をなくそう』で、2番目が『飢餓をゼロに』。『雨ニモマケズ』の延長は、SDGsにつながると思うんですよ」
たかはしべんさんは「子どものしあわせ」や「ペーソスのある笑い」をテーマに、400曲を創作。全国を旅し、一貫して子どもたちの幸せや平和を歌っています。保育園・幼稚園・小学校・中学校なども含め、日本全国で5000回のコンサートを開催してきました。
「子どもたちの前で歌うのが好きなんです。子どもの笑っている顔が大好き。立ち上がってゲラゲラ笑っている子どもを見ると、こっちも幸せになります。しかし、豊かに見える現在の日本でも、なかなか食べられない家族もあって、7人に1人の子どもが貧困だと言われています。そういう子どもたちに夢を届けたいという気持ちで歌っています」
いまから4年前、ふと「いまこの時代に宮沢賢治が生きていたら、どんなことを感じるだろうか」と思いつき、『雨ニモマケズ』を現代風に書き直してみたそうです。
「コンサートで歌うと会場に笑い声がこぼれるんですよ。賢治さんに怒られるのではないかと思いましたが、心の広い賢治さんのことです。きっと笑って許してくれるでしょう!」
■「たかはしべん音楽事務所」
https://www.takahashiben.com
■「宮沢賢治とSDGs たかはしべんコンサート」
開催:10月1日(日) 川越やまぶき会館
■「たかはしべん 音楽活動45周年コンサート」
開催:2024年5月19日(日) ウェスタ川越大ホール
番組情報
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