話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、59年前(1964年)に行われた日本シリーズ「阪神 対 南海」にまつわるエピソードを紹介する。
阪神とオリックスの対決となり「59年ぶりの関西ダービー」と話題になっている今年(2023年)のプロ野球日本シリーズ。もっとも、59年前・1964年の日本ではまだサッカーの「ミラノダービー」(ACミランvsインテル・ミラノ)のような呼称は一般に浸透しておらず、当時のスポーツマスコミは、この年の日本シリーズ「阪神vs南海」をもっと昭和風に「御堂筋シリーズ」と呼びました。阪神も南海も、親会社が関西の電鉄会社で、阪神はキタの梅田、南海はミナミの難波が主要ターミナル駅。2つの街を結ぶ「御堂筋」から取ってそう名付けたのです。
一方、米メジャーリーグで、ともにニューヨークを拠点とする「ヤンキースvsメッツ」は、お互いのホーム球場を地下鉄で行き来できるので「サブウェイ(地下鉄)シリーズ」と呼ばれています。実は甲子園球場と京セラドーム大阪も、2009年から阪神線が近鉄線に相互乗り入れしたため、お互いの最寄り駅(甲子園駅とドーム前駅)へ電車1本で行けるようになりました。サブウェイシリーズにあやかったのか、阪神電鉄が今回の「阪神vsオリックス」を「なんば線シリーズ」と呼び、記念乗車券の販売を始めたのは「さすが商売上手!」と思いました。閑話休題。
ところで、59年前の「阪神vs南海」ですが、その内容があまり語られていないのは残念なことです。1つの理由は、このシリーズが、東京オリンピック開幕の直前に行われたから。通常の年であれば、もっと盛り上がったのでしょうが、歴史的イベントの五輪が同時期に行われては、シリーズ自体が霞んでしまったのも無理はありません。今回、久々の「関西ダービー」実現を機に、1964年の日本シリーズはどんな戦いだったかを振り返ってみましょう。
驚くのはこの年、セ・リーグの優勝がもつれにもつれ、ようやく決まったのが9月30日。その翌日、10月1日に日本シリーズ第1戦が行われたのです。「もっと間を開ければいいのに」と思いますが、これ以上押せない理由がありました。もしフルセットまでもつれた場合、第7戦が行われるのが10月9日(第2戦と第5戦の後に移動日あり)。1日でも押すと、10月10日が開会式の東京五輪とかぶってしまうからです。
そもそも当初の予定では、日本シリーズは9月29日に開幕するはずでした。セの優勝決定が延びたため、2日間延期されて10月1日になったという事情もあり、再延期は不可能だったのです。そのため阪神は、9月30日、中日とのダブルヘッダーで優勝を決めた翌日、“中0日”の強行軍で日本シリーズを戦うことになりました。
第1戦、阪神は南海先発のジョー・スタンカを打てず、0-2で完封負けを喫します。スタンカはこの年、47試合に登板して26勝7敗。パ・リーグMVPに輝いた外国人エースで、このシリーズのキーマンになりました。
第2戦、阪神は3日前に国鉄戦で投げたばかりのジーン・バッキーが中2日で先発。バッキーもこの年は46試合に登板して29勝9敗。353回1/3も投げているのに、防御率が何と1.89! 最多勝+最優秀防御率+外国人投手初の沢村賞も受賞しています。この年は両軍とも、外国人エースが大活躍した年でした。
バッキーは南海打線に先取点を許さず、阪神打線が南海の日本人エース・杉浦忠を攻略。南海も終盤に反撃しますが、バッキーは9回まで投げ抜き、5-2で勝利。対戦成績を1勝1敗のタイに戻しました。気になるのは、第1戦の観衆が1万9904人。第2戦は1万9190人。阪神の優勝決定が押したことや、肌寒い10月の平日にナイターで行われたこと、五輪直前で注目がそちらに行ったこともありますが、5万人近い甲子園球場の収容人員から考えると寂しい入りでした。
1日おいて、10月4日の第3戦から戦いの場は南海の本拠地・大阪球場へ。この球場はミナミの繁華街・難波の真ん中にありました(現在は取り壊され、なんばパークスに)。甲子園と対照的に、大阪球場の3試合は2万9932人・3万107人・2万6962人。甲子園と同じくナイター開催でしたが、3万2000人収容のスタンドが連日ほぼ埋まる大盛況になりました。当時は交流戦もありませんので、甲子園に行かないと観られない阪神の試合が大阪の街中で観られるという珍しさもあったのかも知れません。
第3戦、南海は第1戦に先発したスタンカが中2日で先発しますが、3回、阪神打線に捕まり早々に降板。リリーフした投手が3ランを打たれてしまいます。南海も終盤に登板したバッキー(当時は先発投手がリリーフに回るのはよくあることでした)から2点を奪いますが、5-4で阪神が逃げ切り、2勝1敗とリードします。
続く第4戦、南海は杉浦忠(のちに南海〜ダイエー監督)、阪神は村山実(のちに阪神監督)が先発。日本人エース対決になりました。杉浦はこの年20勝、村山は22勝を挙げています。ちなみに杉浦は巨人・長嶋茂雄と立教大学で同期。村山は長嶋のライバルでした。
阪神は初回、山内一弘のホームランで先制しますが、南海は4回に追いつき、5回に2点を奪って3-1と逆転。しかし6回、阪神は吉田義男(1985年の日本一監督)が内野安打で出塁すると、山内がこの日2本目の同点2ランを叩き込みます。山内は前年(1963年)まで大毎オリオンズの主砲でしたが、村山と並ぶエースだった小山正明との「世紀のトレード」で阪神に移籍。1年目から優勝に貢献したスラッガーで、のちにロッテ・中日で監督も務めました。
試合は4-4のまま互いに譲らず、9回、南海の助っ人ケント・ハドリが村山からサヨナラホームランを放ち、南海が対戦成績を2勝2敗のタイに戻します。
第5戦、阪神はまたバッキー先発と思いきや、藤本定義監督はピーター・バーンサイドをマウンドに送りました。彼はこの年5勝と、29勝のバッキーより格が落ちますが、おそらくバッキーの疲労を考慮したのでしょう。阪神打線は南海先発・皆川睦雄を攻略。バッキーは8回から登板して2イニングを抑え、6-3で阪神が日本一に王手をかけました。
敵地で連勝して、あと1勝で日本一。しかも残り2試合はホーム・甲子園。阪神は「もらった」という気でいたはずです。もし第6戦が予定どおり10月8日に行われていれば、おそらく阪神が日本一になっていたでしょう。ところが、雨天中止。第6戦は翌9日に順延されました。この水入りが、勝負に影響してきます。
第6戦は、バッキーvsスタンカの外国人エース対決が実現。スタンカが4-0で2度目の完封勝利を挙げ、日本一の行方は第7戦に持ち越されました。第6戦が9日ということは、第7戦は10日。そう、東京五輪開幕と完全にかぶってしまったのです。この日、世間はオリンピック一色。本来なら超満員になってしかるべき第7戦は、第6戦の2万5471人より1万人以上も少ない観衆1万5172人の甲子園で、寂しく行われました。
南海・鶴岡一人監督は「これで最後やし、スタンカで行けるとこまで勝負や!」と、何と前日完封したばかりのスタンカを再び先発登板させました。こんな無茶な作戦が採れたのも、雨で休養日が2日間に延びたからです。
一方、阪神は村山が先発しましたが、前日に湿った阪神打線はこの日も不発で、村山は先制を許してしまいます。打たれたところで降板するはずだったスタンカは、驚くことに無失点のまま9回を投げ抜き、3-0で南海が勝利。逆転で日本一となり、このシリーズ3完封で胴上げ投手になったスタンカがMVPに選ばれました。
南海は、正捕手・野村克也のリードも光りました。翌1965年、野村は戦後初の三冠王に輝きます。南海では兼任監督も務めますが、その後阪神の監督に就任するとは、このときは想像もしていなかったでしょう。ちなみに、南海の日本一はこれが最後となり(次のホークス日本一は1999年のダイエー時代)、また阪神初の日本一は、21年後の1985年まで持ち越されることになります。
そんなさまざまなドラマがあった、1964年の日本シリーズ。京セラドームは屋根付きですから大丈夫ですが、59年前、レギュラーシーズンの強行日程を含め雨に祟られた阪神には、好天で試合をさせてあげたいと願うばかりです。はたして今年はどんな筋書きのないドラマが展開するのでしょうか?