あと10m坂を登れば助かった命~防波堤より避難道路【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート岩手県大槌町】3/9(木)放送分

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ザ・ボイス そこまで言うか!」では、3/6(月)~9(木)の放送にて、東日本大震災の被災地にて、被災者の方のインタビューを放送しています。3/9(水)放送分を掲載します。なお、合わせて以下の記事もご覧ください。

災害として風化させてはいけないが非日常から日常に戻りたい【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート福島県双葉郡楢葉町】3/6(月)放送分

避難するのがあと1分2分早ければ逃げる事が出来たんじゃないか【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート宮城県女川町】3/7(火)放送分

大きな波が来た僅か40分で1,760名亡くなる。防波堤神話による心の風化問題【ザ・ボイス東日本大震災語り部レポート岩手県陸前高田市】3/8(水)放送分

今週は4日間にわたって私、飯田が東日本大震災の被災地東北から番組に参加しまして、復興の現状と課題についてお伝えしています。最終日の今日は岩手県大槌町です。大槌町は太平洋に面した岩手県の真ん中よりちょっと南に位置しております。東日本大震災3月11日その時の最大震度は不明となっているんですね。震度の観測記録なしと。これは最大22メートルを記録した津波によって、町の85%が喪失するなど市街地が壊滅したということで記録観測していた機器なども流されてしまったということもあるんでしょう。記録なしというふうになっております。防潮堤は6.4m、それをはるかに超える津波が市街地に押し寄せました。関連死を含め、死者行方不明者1285名。当時の人口のおよそ1割にあたる方々が亡くなっております。

今日は一般社団法人おらが大槌夢広場語り部ガイドの赤崎幾哉さん(75)にお話を伺って参りました。赤崎さんは、40名の職員の方々が犠牲となった旧町役場の本当に近くに、通りを挟んでというようなところにお住まいでありました。まずは3月11日当時の状況を伺っております。

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赤崎
かみさんと二人で街に用があって、車で帰って家の駐車場に着いたらドンと地震があって、ものすごく大きかった。家が倒れるんじゃないかと思ってすぐそばの町道に出たら、周りの人たちもそう言いながら出て来て。待ってから、お年寄りたちを誘導したんです。

飯田
お年寄りを避難誘導してから津波が来るまでっていうのはだいたい15分ぐらいですか?

赤崎
30分ぐらいだったね。私も逃げてる途中、ワッと来たんだけど危なかった。とにかく早く高い所に逃げることだね。理屈じゃない。とにかく逃げるが勝ち、という思いでしたね。

飯田
まずは避難場所に行ったんですか?

赤崎
町の指定の避難場所はお寺さんだったけど、そこもちょっと危ないんじゃないかなということで、海抜40m のとこにある中央公民館体育館、そこへ避難しなおしたということですね。

飯田
先ほど案内して頂いて(お寺から公民館への坂を)少し上がりましたけど、あそこの坂っていうのはキツいですよね。あそこをお年寄りを引っ張っていくというのは…

赤崎
きついですね。お尻を押したり、肩を担いだり。上がってきた人みんなで手伝って、お年寄りを上げよう上げようって、お尻を押したり肩をかついで上がりましたね。必死でした。

ご自宅から避難場所の江岸寺さんというお寺までは、300メートルから400m ほどでありました。そのお寺の裏に、公民館に繋がる坂がありまして、その坂を登っていくと公民館、だいたい海抜40mくらいのところまで上がれるんですけれども、実際にその現場で、当時の状況を伺っております。

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飯田
わぁ、この坂はけっこうツラいですね。 ここまで津波が。津波到達地点の碑が立ってますね。

赤崎
それで私がここへ来たらちょうど第一波がきて

飯田
もう、すんでのところで

赤崎
時間食っちゃったからね。危うく命だけは助かったから、良しとしなきゃダメだよね。津波で1285人が亡くなったんだからね。やっぱり油断。「6.4mの堤防があるんだから、まさかね、ここまでは来ないだろう」っていう。チリ津波で昭和8年のときは5m。チリで6.4mにかさ上げしたんだよね。「もういいだろう」と思ったんじゃないの?そういう人もいると思うよ。だからこんど十何メートルってやったら、何百年後の人が「あれを超えてくるわけないだろう」って安心するんだよ、ダメなんだよ。そんなことよりも逃げる。

そんなこと(防潮堤)よりも避難道路を整備してもらいたい、と私たちは要望したの。夜中でも来たら逃げれるように、太陽光発電の誘導灯を要望したの。あと備蓄ね。避難場所の備蓄、水とトイレと食料・衣類。これだけでいい。こんなの(防潮堤)に8000億円かける必要はないって言ったんです。その都度、国の偉い人たちも「あ~そうですね、検討しますから」って言うんだけど、一切検討してない。もっとこの坂を上りやすいように、私もいろんな市町村の議員が来ると必ずバスをここで降りてもらって、上までバーっと歩いてもらう。そうすると分かる。「赤崎さんの言う通り、避難道路は大事だ」って。この坂、緩くないんだもの。だからみんな入った(坂上るのがきついのを)知ってるから、年寄りは入った、本堂へ。這いつくばって1mでも上がろうって勧めたんだよ。だけどけっきょく本堂へ入っちゃったんだよね。知ってるんだ、坂がキツいっていうの。もちろん寒かったしね。・・・まあいろんな条件が悪かったのさ。

いまお寺の本堂は跡形もなく流されております。実はその登り口から津波到達点という石碑があるところまでっていうのは、もう10mも登れば着くと。まあ10m~20mぐらいのところなんですけれども、それが登れなかったと。高台に行かずにお寺の本堂に避難した30数名の方々は、残念ながら津波の犠牲になったそうです。

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赤崎
(津波は)早いし大きいし。

飯田
この大槌も過去何度も津波の被害に遭ってますよね。避難訓練というはあったのですか。

赤崎
昭和8年3月3日に三陸大津波がありました。それを記念して3月3日毎年、大槌町で避難訓練やってました。

飯田
じゃあ直前にやったばかりだったんですか。

赤崎
そうですね、1週間前にやったばかりでした。

飯田
そのときはお寺に避難していたんですか。

赤崎
そうです。実際そこがダメな場合は坂道を上って、海抜40mの中央公民館まで上がれという風になってました。

飯田
どうですか、参加されてる方っていうのは。取材してると「避難訓練がセレモニーみたいになってた」という方もいますけども。

赤崎
たしかに年々参加者が少なくなってた。朝子供たちが登校する時間に合わせてやってたから、ほとんど子供たちだね、一所懸命やってたのは。住民(の参加者)はほんと少なかったね。私は立場上、町内会の会長をやらされてるから必ずやってたんですけれど、だんだん(参加者が)少なくなってきてましたね。あの時もちょうど1年ぐらい前に、震度5で3メートルという津波予報があったんですよ。実際は1.3m しか津波が来なかった。これがちょうど一年前にあった。そういうのがあるとねえ、「また何言ったって」というようなオオカミ少年っていうのかな、そういう考え方になるのかな。人間はどうしても「なに、大丈夫だ」って思いがちなんだそうだからね。そこ注意していかなければならないって思いますけどね。

何度も何度も津波を経験しているこの大槌でも、またこれだけの被害が出てしまった。今回のこの教訓をどう活かすことができるのか、あれから6年、風化について語り部としてどのように考えているかを聞きしました。

赤崎
こういう実体験は後世の人に残さなきゃいけない。形で残すのも必要だけど、語ってね、体験談を話すことも大事じゃないのかな、という思いが本当強くなったんでね、とにかく命第一っていうことを訴えたいという思いで語り部をやってるんですけどね。

飯田
6年経ってだんだんと記憶が薄れてきてる、風化してるなんてメディアで言われてますけど

赤崎
寺田寅彦っていう科学者も「災害は忘れたころにやってくる」って言ってますけど、忘れないね。経験者は一生忘れない。そのことを伝えてやればいいんじゃないのかなと。それは風化じゃないと私は思う。みなさんそう言うだけで。支援に来る人達はどんと減っちゃったから、「これはもう風化だ」って言う人いるけども、そうじゃないと思う。支援はまた別だと思うからね。こういうのは一生風化しないと思ってる。たとえば被災をした遺構がなくなったとしても、人間の心の中にはずっと伝わるなぁ。それを伝えるのは大事だよ。

風化というもの、経験された方々は一生忘れることはできないと。昨日の取材の中でも「心の防潮堤」というお話を伺いましたけれども、それをどう皆で共有してずっと保っていくかというのが問題のような気がします。さて、大槌の現状そして今後の課題について赤崎さんに伺いました。

飯田
これまで何度か大槌に取材で来てるんですけども、来るたびにこの町はどんどん変わっていて、新しい店が出来たりとか、土地の高さもだいぶ上がったんですね。

赤崎
私のうちは(川の)下流だから2.2m。大槌は平均2.0mだからね盛り土は。高い所で2.2m。変わりましたね、すっかり。昔を思い出すのが大変。俺は残念だけどね、今言ったように盛り土なんかしないで、がれきを撤去して、地下に埋設してる配管を整備するだけで、あとはもう高くするか低くするかは個人の問題だからね。(家の)基礎を。それでもうどんどん国の方で進めた方が、生活が早く戻って良かったんじゃないのかなと、今でも思ってますけどね。絶対、後々後悔するなと思ってる。

飯田
今後の復興についての課題は?

赤崎
心のケア。絶対必要。これからますます大変になると思う。個々の問題、個人個人の問題がいっぱいあるから。これは何とも仕方がない。だから本当の専門家が必要。孤立・孤独死が出る。

飯田
仮設から出て、復興住宅に入って、また…

赤崎
コミュニティを作る。これがえらいエネルギー使うんだよ。私はね、仮設住宅から出る人に言うんだよ。なんでもいいから自分でできることは、草ひとつとってもいいし、ゴミひとつとってもいいから、自分でできることで街づくりに協力しようと。それが新しい街づくりになるし、今まで全国から支援してもらった人への恩返しだよ、と。1人の100歩より100人の1歩が大事なんだって。カッコつけて言ってる(笑)

飯田
みんながそうやって外に出て話して前に進まないといけない。

赤崎
そうよ。人と話すと健康にもなるしね。私も脳トレだと思って語り部やってる。いろんな町の行事にもね、演劇にも出てたりね。とにかく積極的にやってるってことね。自分の人間の幅が出来るんですね。

飯田
まだまだ仮設住宅にお住まいの方って多いじゃないですか。これやっぱり仮設から出るって言うのはそういうコミュニティを作るとか、ハードルが高いってことですか?

赤崎
現実問題、家賃がかからないから、仮設は。私は前の家のローンがあるから。家賃払いながら仮設に入っているようなものだから。私の場合は。それがない人はみんな無料で、光熱費だけ払えばいいわけだから。出たくない人もいるよハッキリ言って(笑)

飯田
経済面も(仮設住宅を出る)大きなハードルになってるんですか?

赤崎
そりゃそうだね、実際ね。みんなそうだと思うけど人口が4000人、5000人減ってるわけだから、前と同じような商売できないよ。交流人口を増やそうということで、私は宮沢賢治の研究会の会員になって、この沿岸地域で交流を図ろうと、三陸ジオパークにも認定。みちのく潮風トレイル、国土交通省それから環境省の認定されてるから、沿岸全部連携しないとやっていけないなと私は思ってる。

飯田
最後にラジオを聴いている方を含めてみなさんに伝えたいことをお願いします。

赤崎
6年間全国から、物心両面で色々支援していただいて、それを糧にしてね、これから新しい町づくりをしなければいかんと、そう思ってますから。それは先ほど言ったような皆さんへの恩返しだと。ひいては新しい町をつくることになるのではないかなと思います。それと、これから個々の心理状態が非常に不安定になる事だから。これはなんとか国の力でケアしてもらいたいな、っていうのが切なる願いですね。

スタジオのコメンテーター、経済学者の飯田泰之と、大槌町に関して話し合いました。

飯田
様々な復興についての今後の課題というのをお話しいただきましたけれども、飯田泰之さんいかがですか?

飯田泰之
そうですね、やはりこういった住民の数が大きく減った地区ですと、町づくりをこれから考えていくときに重要なのが、町の中心部をどの規模にしていくのか、どの規模感で再建していくのかが大切なんですね。例えば、もちろん以前と同じぐらいの規模感で中心市街地を作ると、スカスカになってしまうんですよ。正直。町というには不思議なもので、ギュッと集まってると力があるんですが、バラバラになるといきなり町としての力が失われてしまう。こういったところが難しいところだと思うんですが、どうですか飯田浩司アナは現場に入られて大槌周辺でのお店の稼働状況とかはどう感じられましたか?

飯田
確かにその中心についてはまだかさ上げの工事が行われてる最中だから、こないだ10日ぐらい前に「新しくコンビニができたんだよ」というのが唯一の新しいお店かなって言うようなところです。その奥に入ったところに復興商店街が未だにありますし、津波の被害を免れたマストというショッピングセンターとかはあるんですが、点在してるような感じが見受けられます。

飯田泰之
そうですよね、そういった部分をどうやって中心部に集約できるかというのも重要です。大槌はですね、水産物に関しては非常に素晴らしい場所なんですね。それをコアとして町を再生していくにあたって、やはり中心市街地にいるとまあまあ楽しいなという状態を作っていかないといけない。地域によっては復興商店街つまり仮設の商店街の方が、以前の商店街より、お店が集中していて便利だっていうふうに感じられてる地区もあるようなので、やはり集中の力っていうのを生かしてほしいですよね。

飯田
確かに「福幸きらり商店街」という大槌の復興商店街も、クリーニング屋さんもあれば、電気工事のお店もあればみたいな感じでわーっとこう広がってね、道挟んで反対側のスーパーマーケットもあるんで、ここワンストップで行けるんだなっていうのがとても便利そうに感じたんですよね。

飯田泰之
そうなんですね。これからやはり、ある意味でいうと東北、特に被災地エリアというのは人口減少社会の最先端をいっている。さらに言うとそのスピードも何百倍速で人口減少が発生している。ここからこれからの日本のあるべき姿っていうのを発信していけるような場所になるといいですよね。

さあここを目の前に見えます大槌湾には、人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルとされる「蓬莱島」という小さな島が浮かんでおります。これは復興のシンボルともされているんですね。これについて先ほどお話しを伺った語り部ガイド赤崎さんがこんなことを話していました。

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赤崎
これ1億2000万年前にできた石灰岩の島だったそうです。江戸時代はサンゴ島っていう名前だったんだね。南部のお殿様が船で遊びに来て「この島いい島だから、蓬莱島にしよう」って。草かんむりに逢うっていう字だ、で蓬莱島になった。そのうち松の木の下にお堂があるでしょ、緑色の。
七福神の一人、女性が祀ってあるんです。誰だと思いますか?

飯田
女性だと、弁天さまですか?

赤崎
そう。弁財天。そして弁天島になったんです。その後、昭和40年代に山形県の小説家・井上ひさしって人がここに遊びに来て、「この島はひょうたんをタテに割って伏せたみたいだ」と。「ひょうたん島にしよう」ということでひょうたん島と。でNHK教育テレビの「ひょっこりひょうたん島」のモデルなんですここが。左側に堤防430mがあるんだけど全部壊されたよ、灯台も壊されたよ。復旧したけどね。

番組では「ひょっこりひょうたん島」の曲をオンエアしました。井上ひさしさんが作詞を手がけたこの歌詞、まさに震災後の大槌の住民の気持ちを代弁するような歌詞になっていると感じました。

さあ4日間にわたって、福島県の楢葉、そして宮城県の女川、さらに岩手県の陸前高田、そして今日の大槌町をめぐってまいりましたが、今回のテーマは「風化」ということで各地の語り部の皆さんに風化についてどう思いますかというふうにずっと聞いてきたんですけれども、一様にですね、「あれ、なにその質問?」という感じで少し驚いたような表情を見せていらっしゃったんですね。

震災からまもなく6年になる中、語り部をやるという方々は、故郷に対して思いの強い人たちです。復興は進んでいるけれども、周りを見たら、『もう待てないよ』と故郷を諦めてしまう人がいたりすると。そうした人が増えていることへの焦りを感じていらっしゃって。

なら一刻も早くその経済を立て直して暮らしを立て直して…「復旧から復興へ」というふうに飯田泰之さんも番組のオープニングで語ってくださいましたが、まさにその復興経済の立て直しをどうしていくんだっていう新たなフェーズに入ったという感じがします。

2017年の3月11日、あさってで震災から6年。被災地は七回忌を迎えるということであります。以上、今日は大槌町からリポートいたしました。

この放送はradikoタイムフリーでお聴きいただけます。

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