リトル・フィートだったら、一日中聴いていたって飽きることがなかった。いまだってそれは変わらない。『セイリン・シューズ』に『ディキシー・チキン』、『アメイジング ! 』に『ラスト・レコード・アルバム』、必殺のライヴ・アルバム『ウェイティング・フォー・コロンブス』等々、それらのアルバムを通じて、強靭なリズムがみなぎる演奏には、ワクワクさせられたものだ。しかも、彼らの音楽には、高い志を託すかのように、いつも歌がきちんと寄り添っていた。
ローウェル・ジョージは、そうやって1970年代のロサンゼルスで絶対的な信頼を得たリトル・フィートの中心だった人だ。いまでも目を閉じると、泥臭いスライド・ギターにこぶしの効いたヴォーカルがきこえてくるし、不精髭の巨漢が、オーバーオールのジーンズ姿でノシノシと歩く姿が浮かんでくる。狂気を含みながらもウィットに富んだ彼の存在が、どれほどぼくらの人生を豊かにしてくれたことかと、改めて思う。
リトル・フィートを率いるだけでなく、ヴァン・ダイク・パークス、カーリー・サイモン、ジャクソン・ブラウン、ジョン・ケイル、ロバート・パーマー、ボニー・レイット、グレイトフル・デッドと、いろんな人たちが彼を慕い、彼の協力を仰いだ。いわば、ロサンゼルスのロック・シーンでの精神的支柱というか、心の拠りどころのような存在だったように思う。
1945年4月13日は、そのローウェル・ジョージが生まれた日だ。ロサンゼルスの、それもローレル・キャニオンに近いマルホランド通り沿いで、すぐそばには人気俳優エロール・フリンが住んでいたという。中学、高校を通じてマーティン・キビーと一緒で、高校では後にリトル・フィートのメンバーになるポール・バレールも一緒だった。マーティンとは、ザ・ファクトリーというバンドを組み、そこにはリトル・フィートのリッチー・ヘイワードも参加するが、ザ・ファクトリーをフランク・ザッパがプロデュース、そこからザッパとの縁が始まる。
ザ・ファクトリー後、ザッパ率いるマザーズ・オブ・インヴェンションにしばらく籍を置くが、独立を薦められてリトル・フィートを組むことになる。「小さな偉業」、「ちょっとした手柄」といったバンド名は、マザーズ時代の同僚に、「ちっちゃな足Little Feetだなあ」と言われたことに由来するという話は有名だ。ただし、Little Feet 、そのままでは面白くないので、スペルをかえてFeatにした。かぶと虫BeetleをBeatleと変えたビートルズにあやかったらしい。
1979年、リトル・フィートは解散し、ローウェルは、結果的に唯一となるソロ・アルバム『特別料理』を発表、ツアーにも出る。そのツアー中の1979年6月29日、ヴァージニア州アーリントンのホテルで帰らぬ人となってしまう。死因は心臓発作、34才という若さだった。釣りが好きだった彼らしく、その遺灰は海に撒かれたという。
ローウェル・ジョージのことをロックン・ロールのオーソン・ウェルズと呼んだのは、ジャクソン・ブラウンだ。そのジャクソンは、ローウェルの悲報を受けて、遺児イナラ・ジョージに、父親がどんなに尊敬に値する人物だったか、「オブ・ミッシング・パーソンズ」で歌いかけ、その曲からあがる印税等を彼女に贈るために、出版権利はイナラ・ミュージックに属するとした。
ヴァレリー・カーターも、ローウェルに見いだされた一人だが、先ごろ、彼女の悲報が伝えられたとき、彼女の歌声が聴きたくなっていろんなアルバムを引っ張り出した。ローウェルがプロデュースにかかわったハウディ・ムーンのもあれば、彼女の『愛はすぐそばに』もその中にあった。そして、ヴァレリー、ジャクソン、ローウェルの3人による共作「ラヴ・ニーズ・ア・ハート」を、ヴァレリーの歌声で、ジャクソンの歌声で幾度も繰り返し聴きながら、これを、ローウェルの歌声でも聴きたかったなあと、ふと、そんな思いもよぎるのであった。
【執筆者】天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。