マツダ波乱万丈の97年(1)

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【報道部畑中デスクの独り言】

トヨタマツダの資本提携については前回お伝えしましたが、一方のマツダという会社、その歴史はまさに「波乱万丈」言って過言ではありません。しかも幾多の危機に直面しながら、それを乗り越え、蘇ってきました。

マツダ

マツダの看板

マツダ…広島に本社を持つこの自動車メーカーのルーツは1920年(大正9年)の東洋コルク工業にさかのぼります。実に100年近くの歴史があります。

1927年には企業名から「コルク」が消えて、「東洋工業」に。ブランド名の「マツダ」は事実上の創業者、松田重次郎からとったものですが、ゾロアスター教の神様アフラ・マズダ―にちなんだとも言われています。

なお、プロ野球の広島東洋カープの「東洋」とはスポンサーとなった東洋工業のこと、社名は1984年に「マツダ」となってすでに30年を過ぎますが、球団名には依然旧社名が残っているのも面白いところです。

マツダ

マツダの本社は広島だが、東京本社は内幸町、帝国ホテルの隣のビルにある

マツダ

マツダ東京本社はこんな入口

自動車分野には三輪トラックから進出しました。1960年代にはキャロルやR360クーペなどの軽自動車を生産。そして三輪トラック・軽自動車のマツダから、本格的な乗用車メーカーとしての足掛かりとして注力したのが、ロータリーエンジンでした。
その開発秘話はテレビ番組などでも広く知られるところですが、技術的な問題から世界中のメーカーがさじを投げたこのエンジンをマツダは地道に磨き上げ、市販化にこぎつけました。

電気モーターのようなスムーズなエンジンは、高級セダンのルーチェから、スポーツ車のコスモ・スポーツ、サバンナ、カペラ、そしてファミリー路線のファミリアにいたるまで、ほぼフルラインで展開されました。
実は「パークウェイ」というマイクロバスにも搭載されています。排出ガスもきれいなことから大気汚染が社会問題化した時もAP=Anti Pollution(汚染を防ぐ)のサブネームが誇らしげに加えられました。

パークウェイ

2代目パークウェイ(真室川町営バス 1996年10月撮影(Wikipediaより)

しかし1973年、第四次中東戦争勃発を機に起こったオイルショックは「ガス喰い」のロータリーエンジンを直撃、マツダは一転、経営危機に陥り、メインバンクの住友銀行から支援を仰ぎます。

その後、持ち前の技術でロータリーエンジンの燃費を改善し、「サバンナRX-7」というスポーツカーを生み出しました。さらに商品ラインナップは欧州路線にシフトし、その明快さは高い評価を得ました。特にFF化された「赤いファミリア」はサーファー御用達の名車としていまも語り継がれています。

バブル景気に沸く1980年代後半には一気に拡大戦略に出ます。既存のマツダ店に加えて、「アンフィニ」「ユーノス」「オートザム」「オートラマ」と、トヨタ・日産並みの販売網5チャンネル化に挑みますが、バブル崩壊であえなく頓挫、経営再建のために以前から提携関係にあった米・フォードの支援を仰ぐことになりました。その後、経営は持ち直し、一時は「フォードグループの優等生」と言われます。

CX-5

CX-5(マツダHPより)

2008年、今度は「リーマン・ショック」が世界を襲います。余裕のなくなったフォードはマツダ株の大量売却を断行。フォードの「後ろ盾」がなくなったマツダは世界の自動車市場をいわば「漂流」する形となりました。
円高の影響ももろに受け、2011年度には通期で1,000億円の最終赤字を計上。国内メーカーの中で輸出比率が当時約80%と、他社に比べて突出しているのが最大の原因とされました。

国内市場が縮小する中、他社が着々と海外に生産拠点を移したのに対し、マツダは国内生産にこだわりました。日本のモノづくりに対する姿勢の表れともとれますが、移すだけの企業体力がなかったというのも正直なところかと思います。
次世代自動車の開発競争が激化する中、マツダはどこの傘下に入るのか、自動車関係者の中では注目の的となっていました。

トヨタ マツダ

トヨタ・マツダの資本提携会見 マツダの小飼雅道社長(右)はやや硬い表情。これもキャラクターか

私は前回の独り言でもお伝えした通り、様々な「すみ分け」ができるという面で、トヨタ自動車と組むのも選択肢の一つではないかと思っていました。それが現実となったわけです。(次章に続く)

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