報道のあり方を変えた記者会見
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【報道部畑中デスクの独り言 第59回】
「記者会見はいつから“自己PR”の場になったのか?」
日本大学アメリカンフットボール部による反則行為の問題で、連日のように記者会見が行われましたが、ニッポン放送「飯田浩司のOK!Cozy up!」で飯田浩司アナウンサーがこのように“憤慨”していました。
一連の会見では大学側の対応に様々な批判がありますが、一方でそれを伝えるメディアに対する意見も聞かれます。私も記者の端くれとして数多くの記者会見に足を運んでいますが、確かに最近、記者会見の“カタチ”が変わってきたように感じます。振り返るに、なぜこのようなカタチになってきたのか、顕著になってきたのはこのころからではないでしょうか。それは…
東京電力・福島第一原子力発電所事故の記者会見
2011年3月11日に発生した東日本大震災は、いろいろな意味で報道の“カタチ”を変えたと言われますが、直後に発生した福島第一原発の事故は、「数多ある情報から、限られた時間・紙面の中でポイントを切り取り報じる」という、これまでの報道のあり方を変えたと思います。
現在も事故の状況について、東京電力は定期的に記者会見を行っていますが、ここには新聞・通信社のほか、地上波のテレビにインターネット中継をするカメラ、さらに雑誌、インターネットを活躍拠点としている記者も加わります。
新聞・通信・ラジオ・テレビ・雑誌…これらの媒体は大なり小なり、膨大な情報の中から、ポイントになる部分を各社の編集権を基に抜き出して伝えるのが基本です。もちろん、紙媒体が会見や文書の全文を掲載することはあります。電波媒体に関しても、特大ニュースの場合は特別番組を編成し、記者会見を生中継することはありますが、通常の番組編成を変更するには自ずと限界があります。いくら重要な記者会見でも1時間や2時間にわたるような長時間の会見が、報道・情報番組の枠に収まる場合を除き、そのまま生中継されることは基本的にはありませんでした。それは時に「都合のいいところだけを切り取る恣意的な報道」という批判につながっていきます。
一方、インターネットは記者会見を基本、全編生中継します。視聴者は必要に応じて、それを選択し見ることができます。場合によってはアーカイブとして見直すことも可能です。これにより、これまでニュースとして抜き出されなかった、報じられていなかったやり取りも視聴者が手軽に確認できるようになりました。既存のテレビ局もCS放送などでそのような手法をとることは珍しくなくなり、地上波でも生放送の報道・情報番組という“売り場面積”が増えることによって、その頻度が高まっています。もちろん、即時性と速報性を可能とする中継技術の進歩も見逃すことはできません。「知る権利」に応えるため、このような様々な伝え方で多様な報道が展開されることは歓迎すべきことですし、報道の新たなスタイルを構築したという面で画期的なことだったと思います。
一方、こうした動きで、記者会見がいわば“番組コンテンツ”の1つになり、記者の立場にも変化をもたらしました。会見者のコメントのみを伝えることがほとんどであったこれまでとは違い、記者の質問も“情報”としての性格を帯びるようになったのです。ネットのコメントで「●●記者がんがれ(頑張れの意味)」とか「××記者乙(お疲れさまの意味)」などと書き込まれるのは、ネットユーザーが、記者は“黒子”ではなく、会見者と同じ“出演者の1人”“情報発信者”として認識している証拠なのだと思います。
こうした状況で記者会見の中継そのものを“活躍”の場にしようとする記者も出てきました。もちろんその中には深い知識による鋭い質問や、思いもつかないような視点で指摘する人もいて、勉強させられることもしばしばです。ただ、東京電力の会見では、感情に訴えて「ふざけるな!」というような罵声を会見者に浴びせる記者もいました。また、質問そのものが会見者の回答より長く、「質問」なのか「自分の主張」なのかわからないような記者もいました。中継を意識して自らを“演出”しているのではないかと感じられたのも事実です。ちなみに東京電力の会見では時間制限はなく、質問が絶えるまで続けられました。つまり彼らにとってはその分“出演時間”が増えることになります。(余談ですが、私が出席した東京電力の会見の最長時間は5時間18分。この日、ニッポン放送ではプロ野球中継「ショウアップナイター」を放送していましたが、野球中継より先に東京電力の会見が始まったにもかかわらず、会見は野球中継が終わっても続いていました)
その後、地上波でも報道・情報番組の増加で、「フィールドキャスター」と呼ばれるスタジオの出演者がこぞって会見場に出席するケースが増えてきました。番組名を名乗ることで、会見者とは別のカメラでキャスターを映し出すことで、事実解明より情緒に訴えることで「存在感を出す」、それがいわゆる“自己PR”につながる…その傾向は一層強まってきたのではないかと感じます。
かくいう私も取材に行く以上は、どんな質問をするか知恵を絞りますし、各社との競争である以上、存在感を出そうという気持ちはあります。その分、質問に伴う責任も生じます。しかし、それでも記者会見というものは、あくまでも会見者の発言を引き出すこと、つまり会見者が“主役”であり、記者は“黒子”に徹するべきだと思っています。そうであれば、限られた貴重な時間の中で、質問はコンパクトになり、自分が予定していた質問が他社から出れば、追加の視点がない限り、繰り返しの質問は避けることになります。筋を押さえながらも、誰も聞かない“光る”質問をしようと、知恵を絞ることになるのです。
最後に一つ、会見者に「先ほど申し上げました通り」と言わせてしまったら、その質問は「負け」だと思います。正直、私も「負ける」ことはあるのですが、記者会見のカタチが変わっても、結局は記者の力量が問われるということなのでしょう。質問という言葉には「問い質す」のほかに「質のある問い」という意味も含まれていると考えるようになりました。