日本に数えるほどしかいない、「国際栄養士」の大切さ
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番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【10時のグッとストーリー】
夢を持つことがなかなか難しかったりするのがいまの世の中ですが、きょうは「自分の夢を持てなかった少女」が、あるきっかけでなりたいものを見付け、「国際栄養士」として活躍するようになるまでのストーリーをご紹介します。
「私、子どもの頃“将来の夢”がなかったんです。『大きくなったら何になりたい?』と聞かれても、具体的なことが何も答えられなくて……聞かれることが苦痛でした」
そう語るのは「国際栄養士」として活躍する、 太田旭さん・37歳。国際栄養士とは、母国で栄養士の資格を持っていて、WHO=世界保健機関の基準に沿って外国で栄養に関する仕事に従事する人のこと。日本には数えるほどしかいません。
現在、太田さんは「アライアンス・フォーラム財団」に勤務。アフリカのザンビアや、アジアのバングラデシュで慢性栄養不良の改善と、栄養教育ができる人材育成のプロジェクトを立ち上げ、実践しています。
夢を持てなかった太田さんが、いまの仕事に就くきっかけを与えてくれたのが「バレーボール」でした。
「私、子どもの頃からずっとバレーをやっていて、高1のとき、地元の大学のバレー部がメキシコに遠征することになり、それに同行させてもらえることになったんです」
宮城県の人里離れた町で生まれ育った太田さん。外国に行くのは初めてでしたが、これで中米に興味を持ち、帰国するとすぐに高校を休学して留学することを決意。メキシコを経て、キューバへと渡ります。そこには、栄養失調でやせ細った子どもたちがたくさんいました。
「キューバは医学が発達していて、優秀なお医者さんも大勢いるのに、なぜだろう?」…考えた末に、「この国には、栄養について教えてくれる人がいないからじゃないか?」という結論にたどり着いた太田さんは、「この子たちを助ける栄養士になろう!」と心に決めたのです。
「私は16歳で初めて“なりたいもの”が見つかったんです。自分に夢を持たせてくれた子どもたちに、いつか恩返しができたらいいなって」
そのためには、もっと勉強しなければならないと痛感した太田さんは、栄養士の資格を取ると宮城県内の医療施設や保育園などで8年間働き、29歳のとき、青年海外協力隊に応募します。
1次試験に合格。当時勤めていた石巻市の離島の複合医療施設を辞め、2次試験に臨むはずでしたが、退職を翌週に控えた2011年3月11日、これまで経験したことのない大きな揺れが島を襲いました。
東日本大震災で孤立した、施設のお年寄りや島民たちを守るために、島に残ることを決意した太田さん。青年海外協力隊の夢は、いったん諦めざるを得なくなりました。被災した地元・宮城のことだけを考え不眠不休で働いていましたが、ある日、肉体的にも精神的にもついに限界に達した太田さん。
「このままでは自分が壊れてしまう、思い切って日本を離れてみようと思ったんです」……とりあえずフィリピンへ語学留学しましたが、現地で栄養士であることを話すと、食事の相談を頼まれ、孤児院や学校の食事事情をリサーチして、近くの学校で栄養についての授業をするようになりました。
「『私は、栄養士の仕事と国際交流が好きなんだ。そして子どもと関わるのが好きなんだ!』と、あらためて確認することができました」
太田さんはフィリピンから帰国すると、再び青年海外協力隊に応募。2012年10月、「栄養事情が最も悪い」と言われる中米のグアテマラを希望して派遣され、現地の人の食生活を改善するために、新たなレシピ集を作りました。
それまでのレシピ集は文字ばかり。「分かりにくいので、手書きで調理法の絵を描いたんです」……太田さんが作成したこのレシピ集は評判になり、いま、グアテマラ国内の保健所で共通で使われるようになりました。
2年半の任務を終えて帰国すると、いま勤務している財団に「今度はアフリカやアジアで同じことをやってみませんか? あなたのような人材を求めていたんです」とオファーを受け、国際栄養士の仕事を続けることになった太田さん。多忙ながら、充実した日々を送っています。「まだまだ夢の途中」という太田さんは言います。
「夢を持つことは、マストではありません。自分がやれること、興味のあることをあれこれやって行くうちに、いつの間にかやりたいことにたどり着く……そういう人生も、ありじゃないですか」
八木亜希子 LOVE&MELODY
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