中曽根康弘(なかそね・やすひろ)元総理大臣が11月29日午前、亡くなった。101歳だった。
中曽根康弘とはどんな政治家だったのか……昨年2018年5月28日のニッポン放送『飯田浩司のOK! Cozy up!』で、前日に100歳を迎えた中曽根元総理について取り上げた際の記事を以下に再掲載。
<出演:飯田浩司アナウンサー/コメンテーター:須田慎一郎(ジャーナリスト)>
※記事中の年齢や日付、肩書き等は掲載時のものです。
初当選の時点で「総理大臣になったら何をやるか」を書き留めていた
中曽根康弘元総理が昨日100歳を迎えた。中曽根さんは「大正・昭和・平成の3つの時代を生き、新たな元号も始まる。4代を生きることに、誠に深い感慨を覚える」とコメントを発表した。
飯田)大正7年生まれで、100歳を迎えたとのことです。須田さんはお会いしたこと、ありますか?
須田)何度もあります。国会議員の現役時代もあるし、最近では10数年前。中曽根さんは軽井沢に別荘を持っているのですが、そこの庭でインタビューしました。「こんなにいい環境なら長生きも当然だな」と思いましたね(笑)。
頭は非常にキレる人でした。何よりも私の胸に残っているのは、この人は昭和22年に初当選したのですが、当時は1つの選挙区で複数の当選者が出る中選挙区制でした。しかも、群馬は保守の激戦区だった。そのなかで中曽根さんが当選するのに、「地盤も看板もないなかで、苦労した」という話と、初当選の時点ですでに、「将来総理になったら何をやるか」をノートに書き留めていた。「その当時から総理になることを目指して、自分は政治家をやってきた」と話をしていました。志が高いなぁ、と思いましたよ。
風見鶏と呼ばれた政治スタイル
飯田)もともと、中曽根さんは内務官僚でいらっしゃった。それで、海軍に主計官で入り、戦争の現場にも行かれていた。
須田)その点で言うと、軍人という点においては本職ではないけれど、東京帝国大学(現・東京大学)を卒業して内務省入りというのは、当時としては旧大蔵省よりも遙かに格上のエリート中のエリートだった。そして、海軍主計少佐ですからね。その点では、官僚としても日本を代表するエリートだった。そして、政治力の点でも後に「風見鶏」と言われて、もともと自民党内でも、主流派ではなく、少数派閥の傍流だった。そのなかで、「総理まで上り詰め、必ず政局の中心にいる」という点では、政治力の点でもバツグンでしたね。
飯田)「三角大福と呼ばれた時代でした。“三”木武夫さん。田中“角”栄さん。“大”平正芳さん、“福”田赳夫さんたちがいた時代に、中曽根さんはどこに付くとも付かないとも、という感じで風見鶏でした。
最後は小泉純一郎氏に引導を渡された
須田)中曽根さんの次の総理が竹下登さん。いろいろ一悶着あったうえで、竹下さんになりましたが、結果的に経世会に対して影響力を持った点で、その後も政治力を残していく。ただ、結果としてそれで引導を渡された。つまり、小泉純一郎さんのときです。小泉さんは反小沢。つまり反経世会ですから、その点では経世会の影響を削ぐために、小泉さん自身が定年制を主張し、中曽根さんに引導を渡しに行った。政治の世界では攻守入れ替わっていくのですね。
飯田)因果が巡るというか、ね。中曽根さんは「次の元号も」と仰っていまして。すると、元総理でいちばん長いのが、東久邇宮稔彦王102歳没というのがあるので、ここもきっと意識していますよね。
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