登山家・田部井淳子~エベレスト女性初登頂も成し遂げた生涯
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それぞれの朝は、それぞれの物語を連れてやってきます。
埼玉県日高市に「日和田山」と呼ばれる、標高305メートルの小さな山があります。その麓の駐車場にこのほど、エベレストをかたどったモニュメントが完成しました。
この日和田山から、世界最高峰・8848メートルのエベレストを目指した、登山家・田部井淳子さんのモニュメントです。
日和田山の中腹には、クライマーの間ではよく知られた岩場があります。夫の政伸さんと共に、ここでロッククライミングの練習をしたことから、在りし日を偲んでモニュメントが建てられました。
そもそも2人が出会ったのは、谷川岳の岩場でした。当時、お互いの顔や名前は知っていても、山のなかでは男女が気安く話をする雰囲気はなかったそうです。
そんなある日のこと、2人を結びつける“偶然”がありました。当時、まだ安月給だった政伸さんがやっとの思いで買った、登山用のウールの赤いシャツ。そのシャツを着て岩登りの訓練に行くと、何と淳子さんも全く同じシャツを着ていたんです。
赤い糸ならぬ赤いシャツで結ばれた2人は、1967年に結婚。山好きの2人が一緒になると、目指すは日本の冬山、そして世界の山でした。そのためのトレーニングに選んだ山が、日和田山でした。
夏場でも冬の装備で重い荷物を担ぎ、訓練に取り組みました。夜もヘッドライトをつけ、岩場の隙間でビバーク(野営)したこともありました。
結婚した翌年の1968年、政伸さんはヨーロッパアルプスの3大北壁のうち、2つを制覇します。しかし重度の凍傷で、現地の病院に緊急入院することになりました。そこに届いた淳子さんからの手紙には、こんな文字が綴られていました。
「純粋に山を愛し、同じ目的に進む私達! 頑張ろうね。凍傷くらいふきとばしてしまえ! 早く帰れることを願います。貴方を思う私の気持ちがどんなに深いものであるか、御想像下さい」
夫の無事を待ち焦がれていた淳子さんも、世界の山を目指します。まずは1970年、ヒマラヤのアンナプルナⅢ峰(さんぽう)・7555メートルに、日本女性として初めて登頂しました。
ついに1975年、8848メートルのエベレストに、世界で女性初の登頂に成功! そして1992年には、7大陸最高峰を女性で初めて制しました。
世界的な登山家となった淳子さんは、多忙を極めます。会社勤めをしていた政伸さんですが、子供の面倒をみたり、食事の支度の手伝いをするなど、まさに“主夫”業に追われることもありました。
「かみさん! おかあさん! うちのおばさん!…この3つで呼んでいましたが、いま思えば『淳子』と呼んでやればよかったなぁ」と、政伸さんは悔やみます。
淳子さんが体に異変を感じたのは、2007年の夏のこと。胸にしこりを見つけ、その後、乳がんと診断されました。手術した5年後には腹膜にがんが見つかり、放射線治療を続けますが、副作用に苦しみます。
「病気になっても病人にならない」が淳子さんの信念。家にいてもつらい、じっとしていてもつらい……。何をしてもつらいのなら、いい空気を吸いに外に出よう! そうして向かったのは、若いときにトレーニングを積んだ日和田山でした。
「私たちは、日和田山から物見山までを“リハビリコース”と呼んで、時間をかけ、ゆっくりと登りました。頂上に着くと『きょうも登れてよかった』と喜んでいましたね」
福島出身の淳子さんは「東北の被災地を元気に」と、2012年から『東北の高校生の富士登山プロジェクト』を始めました。2016年7月、東北の高校生と山頂を目指しますが、体力が持たず7合目まで登ったのが、生涯最後の登山となりました。
2016年10月20日午前10時、静かに息を引き取ります。享年77歳。好きなことを全てやり遂げた、安らかな顔だったそうです。政伸さんは言います。
「どの山を登っても、かみさんを思い出すんですよ。なかでも日和田山は、自分たちを楽しませてくれた山でした」
一般社団法人田部井淳子基金(東北の高校生の富士登山)ホームページ
https://junko-tabei.jp/fuji/donation
上柳昌彦 あさぼらけ
FM93AM1242ニッポン放送 月曜 5:00-6:00 火-金 4:30-6:00
朗読BGM作曲・演奏 森丘ヒロキ
番組情報
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