【ライター望月の駅弁膝栗毛】
明治5(1872)年、品川~横浜間の仮営業から始まった日本の鉄道。
いまも東海道本線の一部として、列車が複々線の線路を、頻繁に行き交っています。
その仮営業時代からすでに始まっていたのが、鉄道における構内営業。
駅での新聞、雑貨から駅弁販売、さらに食堂車や車内販売へと発展を遂げていきました。
最新の特急「サフィール踊り子」でも、車内販売やカフェテリアの営業があります。
東北本線・宇都宮駅で「駅弁」が誕生したとされる日から、今年(2020年)で135年。
この駅弁マークを付けられるのは、日本鉄道構内営業中央会(中央会)業者の駅弁です。
「駅弁膝栗毛」では、この中央会の沼本忠次(ぬまもと・ただつぐ)事務局長、そして今回は、「JR東日本フーズ」の泉和夫(いずみ・かずお)広報室長にも加わっていただいて、駅弁の「掛け紙」を軸に、この135年をおさらいしていきたいと思います。
泉和夫(いずみ・かずお)・JR東日本フーズ広報室長
昭和31(1956)年、東京都生まれ。
昭和50(1975)年、国鉄入社後、広報関係の業務に携わり、平成28(2016)年、JR東日本を定年退職し、現在はJR東日本フーズで広報を担当。
中学時代から駅弁掛紙の収集を始め、明治時代以降、戦時中の樺太や満州、台湾のものを含め、所蔵総数は1万枚を超える。著書に「駅弁掛紙の旅」(交通新聞社新書)。
―135年前、おにぎり2個、たくあん2個から始まったとされる駅弁ですが、いまのような折に包装紙が掛けられていったきっかけは何でしょうか?
泉:最初の駅弁の包装は竹の皮ですから、掛け紙は存在しなかったものと思われます。
そのなかで1つの大きな出来事とされるのが、明治22(1889)年、当時の山陽鉄道・姫路駅における、経木の折箱に入れた弁当の販売開始です。
上弁当には、重折箱を使用したとされています。
いわゆる“元祖”幕の内駅弁とされるお弁当ですね。
―幕の内弁当の誕生が、どうして「掛け紙」の誕生に繋がっていくんでしょうか?
泉:元祖幕の内駅弁にも「上弁当」が販売されていたとありますので、通常の幕の内と弁当などとの「区別」が必要になったからではないでしょうか。
昔の文献によれば、販売品の内容や価格、販売方法、売り子の人数・服装まで、鉄道当局の許可と承認が必要だったと言います。
鉄道網の拡大につれ、安全の観点から段々と規則が厳しくなったと考えられます。
(参考)東日本鉄道文化財団「駅弁むかし物語」
―ここから「掛け紙」は、どのように進化していったんでしょうか?
泉:最初は駅弁名が刷られているくらいだったと思われますが、当時は駅弁の空き箱や、陶器製の汽車土瓶を、窓から投げ捨てる乗客が多くいたと言います。
夏目漱石の「三四郎」(明治41(1908)年連載)にも、その描写がありますよね。
でも、保線の方が怪我をしてしまうことから、掛け紙に“空き箱は窓から捨てるな”といった「マナー標語」が加わっていきました。
―大正時代になると、また掛け紙の雰囲気も変わっていきますよね?
泉:掛け紙に「お気づきの点はこちらへ……」と書く欄が登場します。
いまで言う「お客様の声」を掛け紙に書いて、駅長または車掌に渡してくださいと書かれた掛け紙が登場しているんです。
ご当地の観光案内や路線図が書かれた掛け紙は明治時代からありましたが、明治と比べて、「サービス」という感覚が磨かれてきたのが大正時代かもしれません。
―昭和に入ると、また時代が大きく動いていきましたが……。
泉:昭和初期は鉄道の黄金時代だったんですが、昭和13年に国家総動員法が制定されると、掛け紙も一気に戦時色が強くなっていきました。
「贅沢は敵だ」「戦地を偲んで……」「国民精神総動員」といった標語やフレーズが、軍部の指令で掛け紙にも入っていきます。
さらに戦況が悪化した昭和19(1944)年には、駅弁そのものが休止、あるいは米の入らない粗末なものとなっていきます。
―一転、戦後の掛け紙はどうだったんでしょうか?
泉:高度経済成長、東京オリンピックのころになって、掛け紙がカラフルになってきました。
昭和45(1970)年の万博後に行われた「ディスカバージャパン」キャンペーンからは、国鉄のキャッチコピーが入るようになっていきました。
「いい日旅立ち」「1枚のキップから」「エキゾチックジャパン」といったキャンペーンをご記憶の方も多いのではないでしょうか。
―「掛け紙」はまさに“時代を映す鏡”だと思いますが、駅弁ファンの心をくすぐる“限定掛け紙”の元祖のようなものはありますか?
泉:大正11(1922)年にイギリス皇太子(のちの国王・エドワード8世)が来日しました。
前年の皇太子(のちの昭和天皇)訪問の返礼として訪れたのですが、国を挙げての歓迎ということで、このとき、全国の駅弁業者が、記念の掛け紙をつくっているんです。
全国同一のデザインで、名前のところだけが各社別になっています。
最古であるかはわかりませんが、1つの大きな出来事ではないかと思います。
(JR東日本フーズ・泉和夫広報室長インタビュー、おわり)
版画刷りのシンプルなものから、時代に合わせて変化してきた、駅弁の掛け紙。
いまでは紙蓋を兼ねたタイプやスリーブ式のものも多くなりましたが、よりカラフルで印象的な包装が多くなりました。
東京、品川、上野、新宿などの各駅にある「JR東日本フーズ」の売店で販売されている「日本ばし大増」製造の「幕之内弁当」(1080円)も、紙蓋タイプとなっています。
【おしながき】
・白飯 梅干し ごま
・キングサーモンの塩焼き
・かまぼこ
・玉子焼き
・鶏つくね串
・帆立フライ
・海老フリッター
・パプリカ素揚げ
・煮物(里芋、人参、ふき、蓮根、こんにゃく)
・金平ごぼう
・しば漬け
・青唐辛子味噌
掛け紙誕生の1つの契機となったとみられる「幕の内」駅弁。
幕の内のおかずのなかでも、焼き魚・かまぼこ・玉子焼きは“三種の神器”と呼ばれます。
最初はご当地らしさが出る「焼き魚」の種類から入って、やがて「玉子焼き」の焼き加減、煮物の味付けなど、どんどん興味の幅が広がっていくのが、幕の内の奥深いところ。
東京の「幕之内弁当」は、ベーシックな鮭の塩焼きが食べやすい大きさで入っています。
昔は多くの“列車”が行き交った東海道本線も、昭和25(1950)年登場の湘南電車から、電車化が進み、いまでは通勤形車両と同じ4ドア車両が主流となっています。
でも、一部にはボックスシートも残っている他、グリーン車なら気を遣わずに駅弁旅が楽しめます。
とはいえ、昔ながらの「駅弁」と比べれば、とても厳しい状況にあることは確か。
135年を迎えた「駅弁」の今後を、引き続き伺ってまいります。
連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/