ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」(9月14日放送)に中央大学法科大学院教授の野村修也が出演。9月11日に死去した元三井住友銀行頭取・西川善文氏について解説した。
元三井住友銀行頭取・西川善文氏が死去
旧財閥の枠を超えた大手銀行の合併を主導し、三井住友銀行の初代頭取を務め、郵政民営化で発足した日本郵政では、初代社長を務めた西川善文氏が亡くなった。82歳だった。
飯田)「最後のバンカー」と称されました。1990年代から2000年代というと、金融業界は激動に次ぐ激動でした。
野村)私もその時代は、不良債権処理に関わっていました。
飯田)そうだったのですか。
野村)大蔵省が解体されて、金融監督庁ができたときに、最初の民間人採用の枠ができまして、そこで金融検査官をやっていました。正確に言うと、バックオフィスで金融検査マニュアル、検査官の手引書をつくっていました。
飯田)マニュアルづくりが大変だったと言います。あれで汗をかいていらっしゃったのですか。
野村)そのとき、まさに不良債権の矢面に立たれていた西川さんを存じ上げておりました。
飯田)カウンターパートというか、相手役だったわけですね。
野村)そういう形で存じ上げておりました。その後、私は郵政民営化委員というものになりまして、初代社長の西川さんに再会し、そこでも力を尽くされている姿をよく見ていました。
三井住友銀行の初代頭取に就任
飯田)いろいろな銀行が合併して行くような時期でした。
野村)バブルのときに、よくないところにお金を貸してしまっていたという問題がたくさんあったので、綺麗にすることについては命がけでした。いまで言うところの反社会的勢力にお金を貸してしまった場合、回収したり、関係を絶ったりするのは本当に命がけでした。バンカーと言われますが、銀行員の魂を持った方々というのは矢面に立って、日本の金融市場を守るために、戦士のように闘っていました。その象徴的な人物だったと思います。
「最後のバンカー」と呼ばれる所以
飯田)不良債権処理の過程では、泣く泣く人を切ったり、あるいは直言をしたりと、いろいろあったわけですよね。
野村)西川さんは、自分に目をかけてくれていた磯田さんという会長に対して、最後には辞めるように進言しました。
飯田)「あなたが辞めないと、ことが収まらない」と言って。
日本郵政の初代社長に
野村)このようなことをやられたというのが、歴史に残っています。だから、「最後のバンカー」と呼ばれており、本当に金融について、金融市場を守ろうとした侍のような人です。そのあと郵政民営化があるのですが、郵政民営化というものは、日本にとっても政治にとっても大きな政局の話題になり、小泉改革の1丁目1番地ということで、民営化が進みました。そこで西川さんの力量が買われ、最初の社長に就任しました。
飯田)まわりは大反対したみたいですね。
野村)もちろんそうです。それまでは、郵便局というのは銀行の敵でしたから。
飯田)そうですよね。貯金か預金かで争っていました。
野村)そのときに西川さんは、「日本の金融マーケットのために、まだ自分が役に立つなら力を尽くそう」と、火中の栗を拾いに行かれたのだと思います。政治的にも対立しているし、その他にもいろいろな利害関係があるわけです。郵便局の歴史のなかに利権のようなものがあって、そこに入って行ったら、当然返り血を浴びます。それを覚悟の上で斬りに行きました。その結果、政権交代があり、民主党政権になったら急に悪者にされてしまって、刑事告発までされてしまいました。
民主党政権になり刑事告発までされた
飯田)あのとき、刑事告発までされたのですね。
野村)「かんぽの宿」というものがあり、簡易保険が扱っていたもので、みんなで使う宿をたくさんつくっていたのです。しかし、まったくお客さんが来ないため不良資産になっていたので、それを売却して、バケツの底が抜けているような状況を何とか改善しようとした。いいやり方をしていたのに、M&Aや事業場等を理解できない政治家の人たちが、「背任だ」と言い出しました。
飯田)「会社に操作をした」とかね。
野村)穴が空いたバケツだから、タダ同然で引き取るのは当然のことです。それを安く売り払ったという話にさせられたのは、本当に残念だったけれども、いまとなっては「やはり西川さんはすごかった」と評価している人が多いと、私は思います。
飯田)だからこそ、いろいろな評伝が出て来たりするわけです。
野村)今回、お亡くなりになったときに悼む声が多いというのも、そういうことだと思います。
飯田)謹んでご冥福をお祈りいたします。
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